生月学講座:14世紀末の危機(2)
- 2024/07/01 09:24
- カテゴリー:生月学講座
明が15世紀初頭まで5度にわたって出した海禁令で民間貿易を禁止し、国の公式使節のみに往来を許す朝貢貿易体制に移行させた事で大きな打撃を受けたのは、九州本土から離れ、大洋路(日中間航路)の寄港地が多く存在した五島列島でした。列島北端の宇久島は遣唐使の時代から寄港地として用いられてきましたが、特に宇久島の西南岸と対岸の寺島の間の海域が、一定の水深があって北西の風波が避けられるジャンク船停泊地の条件を満たしていて、沿岸にある西泊遺跡からは大量の貿易陶磁器も見つかっています。また宇久島を領した宇久氏の館があったとされる山本遺跡からも大量の貿易陶磁器が見つかった他、近年には薩摩塔の存在も確認されています。宇久氏は、のちに本拠地を列島南部の福江島大値賀(福江)に移して近世大名・五島氏になりますが、当初、列島北端の宇久島を根拠地にした理由は、同島がジャンク船の寄港地になっていて貿易に伴う様々な利益が得られたからです。宇久氏の祖先が平家盛である事も、宇久氏と、平安末期に大洋路を介した日宋貿易を振興させた平氏政権が関係を持っていた事を示唆していると思われます。
ジャンク船寄港地としての宇久島のライバルが、南に隣接する小値賀島でした。同島の東側にある前方湾は、北西や東の風波が避けられ水深があるジャンクの停泊地の条件を満たしていて、湾の水底からは碇石が引き上げられている他、湾を見下ろす位置にある野崎島の神島神社は、『類聚国史』貞観18年(876)6月8日の項にある、大洋路と海北道(日鮮間の航路)に関係して位階が上がった神社の一つでした。『青方文書』によると小値賀島は平安時代末期、松浦直が知行していましたが、直は平戸にいた宋人蘇船頭の後家を後妻に娶り、後妻の連れ子の連に小値賀島の知行を相続させています。この事は当時「住蛮」といって貿易先の外地に宋人(中国人)が住み着いてジャンクの輸出入品の販売・調達に当たる体制の中で、大洋路沿いの平戸や小値賀島には唐坊が存在し、彼らの主導で港が運営されていた事を示唆しているように思えます。小値賀島は鎌倉時代初頭に、のちに平戸松浦氏となる峯氏の祖である持(たもつ)に譲与されますが、これが平戸松浦氏が大洋路の貿易に関与していく契機になったと考えられます。
しかし14世紀末~15世紀初頭に日明間で民間貿易が禁止され、勘合貿易体制に移行すると、宇久島は勘合船の寄港地から外れ、宇久氏が宇久島を本拠地とする利点は失われます。宇久島で出土する貿易陶磁がこの時期以降激減している事実からも、同島の対外貿易の衰退が窺えます。そのため宇久氏は本拠地を五島列島南端にあり列島最大の面積を持つ福江島に移したと考えられ、記録ではそれは永徳3年(1383)の事とされますが、移転の理由としては、宇久氏が米などの農作物の生産が多い福江島を掌握した上で、耕地が少ないが勘合貿易船の寄港地となっていた五島南部の奈留島の交易活動を運営していく利便を考慮した事が考えられます。
16世紀に入って日明貿易の主体が、公主体の勘合貿易から中国人私貿易商の密貿易に移行すると、五島列島は再び貿易根拠地として活況を呈する事になりますが、それとともに大洋路の寄港地の掌握を企図する平戸松浦氏と宇久(五島)氏の争いも生じていきます。そのため宇久島に接した生月島を支配する籠手田氏や一部氏も城(殿山城)を築いて防御を固める一方、五島侵攻に従事する事を余儀なくされていったのです。(中園成生)