生月学講座:須古踊り研究の最新成果
- 2024/08/01 17:17
- カテゴリー:生月学講座
近年、平戸市域では民俗芸能に関する様々な動きが起きています。令和4年には日本国内各地の風流踊りに由来する民俗芸能が世界文化遺産に登録されましたが、その構成資産には平戸のジャンガラが含まれていました。令和5年11月には須古踊りをテーマとしたフォーラムが生月島で開催され、須古踊りの発祥地とされる須古の地がある佐賀県の白石町からも大勢が参加されました。令和6年3月には生月島の生月勇魚取唄が県指定無形民俗文化財に指定されています。また島の館では、昨年開催された須古踊りフォーラムの際に基調講演を行った元伊万里市歴史民俗資料館館長の荒谷義樹氏の論考「須古踊の研究」を、令和6年3月刊行の『島の館だより』28号に掲載しましたが、荒谷氏の論考は現時点での須古踊りの最新の研究成果です。
荒谷氏の研究では、須古踊りは風流(風流踊り・風流囃子物)に属する芸能、もしくはそれが変化した盆踊りだと規定した上で、その基本要素は「スコオドリ」という名称を持つ事と、「めでたき御代のはじめかな」という歌を持つ事だとしています。このような須古踊りの特徴を持つ芸能行事を、荒谷氏は長崎県内で北松を中心に23カ所確認しています。平戸市域に限って見ると【的山大島】〔西宇戸〕、東神浦・西神浦、的山、度島(三免、中部)、【生月島】〔里〕、舘浦、【平戸島】獅子町、大志々伎町、【旧田平町域】〔下亀〕、〔以善〕で行われています。※〔 〕令和元年段階で過去行われていた場所
須古踊りの起源について、荒谷氏は16世紀後半(戦国~安土・桃山時代)には佐賀県南西部の白石町にあった須古城の城下で須古踊りが行われていた可能性があるとしています。須古城下は須古踊りの起源とされる地で、従来は、平井氏が城主をしていた須古城を佐賀を本拠とする龍造寺隆信が天正2年(1574)に落城させた際、各地に落ち延びた人々が須古踊りを伝えたとされてきました。しかし史料によると、天正8年(1580)龍造寺隆信が自身の隠居城とした須古城で須古踊りを鑑賞しており、その頃肥前の政治的中心となっていた須古城下で須古踊りが盛んだった事が窺え、その時代に周辺に広まった事も考えられます。佐賀藩の実権が鍋島氏に移った江戸時代初頭にも佐賀領内では須古踊りが盛んに行われていて、寛政14年(1637)9月には鍋島氏が江戸で将軍に須古踊りを上覧した程でした。しかしその後須古踊りは佐賀本藩では急速に廃れ、現在佐賀県内には存在していません。その理由を荒谷氏は、寛永14~15年(1637~38)に太平の世を脅かす凶事、島原・天草一揆が起きた事や、総攻撃時の抜け駆けで鍋島氏がお咎めを受けた事を不吉とし、佐賀藩が須古踊りを忌避したからだと推察していて、その後佐賀本藩領域の芸能行事は浮立(ふりゅう)に換わっていっています。一方で、龍造寺家が治めた支藩の諫早や、周辺の大村藩、平戸藩、天領などには須古踊りが残っています。
また荒谷氏は、須古踊りは「新発意(しんぼち)」と呼ばれる芸能者などが各地に伝えたが、本来この芸能は水を司る龍宮姫に捧げる目的で行われたもので、その神霊の依代として傘鉾や幟が用いられと推測されており、生月島舘浦の須古踊りの傘鉾もその脈絡で捉えられています。荒谷氏の研究によって、須古踊りがジャンガラと比肩する歴史的価値を持つ芸能である事が明らかになってきたのです。(中園成生)