長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:小説「鯨神」と生月島

   今年(令和6年)8月28日に作家の宇能鴻一郎氏が亡くなられました(享年90歳)。宇能氏は官能小説の大家として知られていますが、若い頃には純文学作品を書かれていて、昭和37年(1962)には前年(東京大学大学院在学中)に執筆した短編「鯨神」(『文学界』所収)が第46回芥川賞に選ばれています。この作品の舞台は肥前平戸島和田浦という架空の地ですが、和田浦は「隠れキリシタン」の伝統を伝える捕鯨の村となっている事から生月島がモデルだと考えられています。なお宇能氏は「鯨神」執筆後、五島を舞台にした古式捕鯨物の短編「地獄銛」(1962年)も執筆しています。
 「鯨神」の時代設定は明治で、過去何度も来遊してきた巨大な背美鯨・鯨神の捕獲を試みては大勢の犠牲者を出してきた和田浦の刃ザシの若者シャキが、復讐に猛る村民とともに鯨神に挑み、ついに捕獲するものの、瀕死の重傷を負うという物語です。シャキ自身は命を賭けてまで鯨神に挑む事のむなしさを承知しているのですが、鯨名主をはじめとする浦人達の復讐心を受け止め、先祖を殺された自分の運命として鯨神に立ち向かいます。棺桶に乗せられた瀕死のシャキが浜に置かれた鯨神の骨に向かって「お前らは、実にすばらしか奴らじゃ」と話しかけ、鯨神が同じ言葉を返すラストが印象的です。
 「鯨神」については、アメリカのハーマン・メルヴィルが書いた小説「白鯨」(1851年)の影響・類似が指摘されてきました。白鯨には伝説の白い抹香鯨・モビーディックが登場し、過去この鯨に片足を取られた船長エイハブが、復讐に取り憑かれて捕鯨(母工)船ピークォード号で全世界の海を巡り、最後はモビーディックに船を破壊され、乗員の殆ども殺され、自身もモビーディックに打った銛の綱に絡まって海に引き込まれます。両作品に共通する、伝説の鯨に対する復讐の捕鯨という筋は、日本・欧米を問わず純粋に経済活動としておこなわれた古式捕鯨業のあり方からするとあり得ない(文学上の虚構の)設定ですが、両作品のラストは異なります。モビーディックは自然を象徴するような圧倒的な力で船や命を奪い尽くし、人間はただその状況を目の当たりにするだけですが、シャキは捕獲した鯨神を一生命として認め、互いに心の交歓をなしたかのような形で終わります。そのあたりに欧米と日本の人間と自然の関係性の違いを見る事ができるように思います。
 「ゴルゴ13」で有名な劇画作家・さいとうたかお氏は、昭和46年(1971)に「鯨神」を劇画化した作品「鯨神」を発表していますが(『週間ぼくらマガジン』所収)、小説の世界を忠実に再現した作品になっています。また星野之宣が平成8年(1996)に発表した「鯨鬼伝」(『滅びし獣たちの海』所収)は、「鯨神」を下敷きに、設定を江戸時代(禁教期)の肥前叉鬼村という架空の村とし、漂着したエイハブ船長が、銛打ちの青年・弥太など地元の浦人と協力して白鯨に挑む筋になっていますが、ラストは「白鯨」同様、捕獲に失敗し船団も全滅します。本作中のエイハブは、「鯨神」に登場したシャキのライバルとなる銛師・紀州男と司祭を併せたような役回りになっています。
   令和6年9月23日付の西日本新聞には、小説家の佐藤洋二郎氏による宇能氏の追悼文が掲載されていましたが、その中で佐藤氏が「鯨神」の舞台でもある生月島を三度も訪れた事が紹介されていて、ありがたく思った次第です。(中園成生)




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