長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:キリシタンと差別

生月学講座:キリシタンと差別

 島の館には人権関係の団体が研修に見えられる事がよくあります。多くは慰安旅行の一環でお出でになられていますが、時折は「かくれキリシタンの皆さんは差別を受けていたんでしょう」と尋ねられる事がありました。私は、生月島ではかくれキリシタン信者が大数派だった事もあって、差別のような事は聞いた事が無いとお答えしています。
 差別の話題が出る時に注意して伺っていると、対象となる集団や時代、地域を大掴みに捉えられていて、漠然と差別があったと思われているような印象を受けます。例えば「キリシタン」という言葉は、歴史的には16~17世紀前期のローマ教会と繋がった宣教師や信者、彼らの信仰を指しますが、同信仰が禁止された江戸時代に、仏教や神道を並存させながら同信仰を継承した信者も自らや自身の信仰を「キリシタン」と呼んでいて、禁教を行った為政者や非信者の人々も同信仰を継承した信者を「キリシタン」と呼んでいました。しかし幕末以降になると、カトリックの再布教に応じた信者の事を「キリシタン」と呼ぶようになります。幕末から明治6年の禁制高札撤廃の間、政府の弾圧を受けたのは復活してカトリック信徒となった「キリシタン」達でしたが、この時期にはかくれキリシタンの方は殆ど問題になっていません。 
 長崎県下でかくれキリシタン信仰が継続した生月島、平戸島西岸、浦上、外海地方などでは、17世紀中頃以降には信仰が露見する事も無く、差別的な扱いも確認できません。例えば生月島では、周辺の漁場で捕鯨業や鮪定置網漁業が盛んに行われ、平戸藩も大きな経済的恩恵を受けていましたが、かくれキリシタン信者もそうした産業に直接的、間接的に関与していて、決して孤立した生活を送っていた訳ではありませんでした。
 18世紀後期以降になると、外海地方のかくれキリシタン達の中から公式、非公式に五島列島、五島灘の島々、平戸島中南部、東松浦諸島などに移住する人達が大勢出ますが、移住先で「居付」と呼ばれた彼らは、元から住んでいた人々(地下)とは離れた海岸沿いの小平地、斜面地、丘陵上などに住み付き、畑作や小規模な漁業、薪炭林業などに従事しています。稲作や専門的な漁業を営む地下住民とは異なる生業形態で、信仰の事もあって地下住民とあまり交わらない居付住民は、地下住民から区別される存在だったようですが、地下住民が展開する漁業には、居付住民の労働、畑作物、薪炭などは欠くことができないものでした。状況が大きく変化したのはカトリックの再布教が始まってからで、再布教に応じてカトリックとなり、仏教や神道から離れた信者達は政府から棄教を求められ、地下住民もそれに同調して様々な危害を加えています。この時期に地下住民の居付のカトリック信者(「キリシタン」と呼ばれた)に対する認識が、従来の区別から差別に近い感情に変化した事が考えられます。
 長崎近郊の浦上では、幕末の安政3年(1856)に起きた「浦上三番崩れ」でかくれキリシタンの指導者が検挙対象になっていますが、慶応3年(1867)から明治6年(1873)にかけて起きた「浦上四番崩れ」では、カトリックに合流した信者が弾圧の対象になっています。このような幕末以降のカトリック信者に対する弾圧が、かくれキリシタンの差別というイメージの形成に大きく影響した可能性があるのです。
(2010年1月 中園成生)




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