生月学講座:ヒョウスベとキリシタン
- 2024/11/13 11:16
- カテゴリー:生月学講座
生月島のかくれキリシタン信仰を奉じてきた在部4集落(壱部、堺目、元触、山田)では、「野祓い」「野立ち」という山野を祓う行事が行われてきました。野に放たれる牛が禍に合わないように、魔物が出そうな場所で聖水(お水)を打ったり、鞭由来の呪具オテンペンシャを振ったり、和紙を剣先十字形に切って作ったオマブリや煎った大豆を納めたり、塩を振って清めたりしました。祓う場所の中には川端や池など水にまつわる場所もあり、そうした場所ではガッパ(河童)が出るとも言われるため、キリシタン信仰では布教以前には水神と認識されていたガッパを魔物と捉え、祓う対象にした事が考えられます。しかし元触集落の小場垣内(かくれ信仰の組)の「野立」行事では、池を祓う時には、他所の祓いで使う塩を振らず、団子(33個)とオカケメ(足の付いたスルメ)を池の中に投じた後、まず「キリヤーレンド、キリスケレンド、ケーレレエンド」(ギリシア語の文句「キリエ」)を3回繰り返した後、「九十九人のヒョウスベシ、池主カテテ百人にホガイ立奉る」と唱えました。この行事では、ガッパは祓われる対象である魔物というより、水の神として供物を与えられる対象とされているようです。一方、同じ元触で旧暦6月の土用前後に行われる土地改良区の池祭は、池の水を管理する池番が主体となって行われますが、竹で作った棚にシトギ・団子・オゴク・スルメ・神を供え、神主が祝詞を奏上します。棚の四方の竹には鳴雷神、水分神、水波能売神、久比奢持神などの神名を書いた紙旗が付けられる事から、この池祭の祭祀の対象は神道の水神である事は確かなのですが、その時にも水番は、池の中に団子などを放ってガッパに供えています。
さて先の元触の野立ちで問題となるのが、唱え文句に登場する「ヒョウスベ(シ)」という名称です。『新版河童の世界』によると、ヒョースベ・ヒョースボ・ヒョウスンボは、現在、宮崎県などで確認できる河童の呼称です。生月島に現在伝わる河童の名称はガッパで、ヒョウスベ(シ)は確認できません。また「九十九人」という数については、生月島中部西岸にある方倉に住むとされるガッパの数と一致します。
正徳年間に佐賀藩士・馬渡俊継が編纂した『北肥戦誌』には、武雄の潮見城主・渋江氏の祖先、兵部大輔島田丸が奈良の春日大社を建設する奉行を務めた時、内匠頭の某が秘法で99体の人形に命を与えて作業に使役し、完成後、用済みの人形を川に流したものが河伯(河童)となり「兵主部(ひょうすべ)」と呼ばれ、兵主部は渋江氏の先祖である橘氏の眷属になったという伝承が記されています。木片や藁人形に命を吹き込んだものが河童の起源だとする伝承は全国にありますが、99という数字は方倉や元触小場のかくれ信仰の申し立て文句とも共通し、「ひょうすべ」という名称は元触の野立の文句と同じです。
潮見城下にある潮見神社には、渋江氏の先祖である橘氏とともに眷属の兵主部を祀っていますが、中世には同地を本拠にして橘氏や眷属の兵主部を水の神として祀る事を各地で行って回った宗教者が存在した事が想定されます。彼らによってキリシタン信仰が生月島に伝わった時期(1558~65)より前に、生月島にヒョウスベという名称や99匹という数が伝わり、それが生月島元触のキリシタン(かくれキリシタン)信仰の池祭の祭文や、方倉のガッパ伝承の中に残った可能性があると思われます。(中園成生)