長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:御崎の牧

生月島北端の御崎地区は、古くは「牧」と呼ばれていました。奈良時代に編纂された『肥前国風土記』によると、昔このあたりに住んでいた者達は、容貌は「隼人」と呼ばれる現在の鹿児島県辺りにいた種族に似ていて、騎射、すなわち馬に乗って弓矢を用いる事を好むとあり、相当古い時代から馬が飼われていた事が分かります。『風士紀』松浦郡値嘉郷の条にも、当時、値嘉島と呼ばれた平戸諸島は牛・馬に富むとされています。また平安時代の延長5年(927)に完成した法令書の『延喜式』の兵部省諸国馬牛牧条にある肥前国六牧の一つに、「肥前国生属(いきつき)馬牧」という牧場の名前が出てきますが、恐らくは生月に置かれた牧場を指すと考えられ、その最有力の候補地が御崎です。
 さらにここに中世に牧場が置かれた傍証として、源平合戦の頃、源頼朝が飼っていた当時最高の名馬と言われた池月(いけづき)がここで生まれ育ったという伝説があります。平安時代の終わり頃、関東に拠る源頼朝と、一足先に平家を破って京都を押さえた源(木曽)義仲との間で戦いが起こりますが、『平家物語』によると、寿永3年(1184)に頼朝の軍勢が関東から京都に攻め上り、義仲の軍勢と琵琶湖から流れ出る宇治川を挟んで睨み合いになります。その時、頼朝の家来である佐佐木高綱は、頼朝から譲り受けた池月に騎乗し、もう一頭の名馬・磨墨に騎乗する梶原景時と競争した末に、見事川を泳ぎきって先陣を果たし戦闘を勝利に導きます。「生月人文発達史」は後世の文書ですが、「生月の牧の地は上古より馬牧場であった。西部絶壁の所に名馬草と称する草がある。容易に食べることは出来ないが、これを食べる馬は名馬となる。かの池月もこの草を喰い、また鯨島に泳ぎ渡り同所の牧草を喰ったので名馬となり、頼朝の所望に依って献上した」とあります。池月が生まれ育ったとする伝説は全国に分布しており、直ちに史実云々とする事は難しい所はありますが、馬の飼育が盛んだった所に伝説が残っている事は間違いないようです。なお、池月の名が訛って「生月」になったという説がありますが、源平合戦より遡ること350年の承和6年(839)に、唐(現在の中国)から帰国した遣唐使船が肥前国松浦郡にある生属島に着いたという記事が、貞観11年(869)に編纂された『続日本後紀』に掲載されていることから、以前から用いられていた事は確かです。
 御崎の牧は、松浦党に属する一部、加藤、山田の三氏が生月島を支配した中世や、有力なキリシタン領主である籠手田氏、一部氏が支配した戦国時代にも、これらの領主が保有する軍事力に伴って軍馬用の牧が設けられたと思われます。「生月人文発達史」によると、籠手田氏、一部氏が退去した後、平戸藩の直接統治となった江戸時代にも、御崎は御料馬牧場という藩営の牧場として使用されましたが、文政9年(1826)に平戸島の春日に牧場を設けたのに伴い、生月の馬牧は廃止されたとあるので、それに伴って島内の壱部、堺目、元触集落から移住・入植が行われ、御崎集落が成立したと考えられます。そのため、かくれキリシタンの組織もそれぞれの出身集落に属しており、また集落内には神社を持たず、やはり出身集落によって白山、住吉両神社に属しているそうです。(中園成生、2004年6月)




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