長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:安満岳の奥の院様

生月学講座:安満岳の奥の院様

 去年(2024年)の4月、安満岳でNHKの「日本百低山」という番組の取材があり、歴史の分野の情報提供などで協力させていただきました。その際に安満岳と生月島民、とりわけかくれキリシタン信仰(かくれ信仰)との関係について再検証する必要があり、今回はその内容について紹介します。
 生月島のかくれ信仰の祈り「オラショ」の冒頭と最後に唱えられる「神寄せ」の中に、「安満岳の奥の院様」という名前が登場するのが、かくれ信仰と安満岳を結ぶ唯一の事例です。神寄せは「申し上げ」とセットになっていて、神寄せで列挙した対象に、今回このような祈願のためにオラショを唱えますという事を申し上げの中で唱えます。という事は、神寄せで列挙した対象はかくれ信仰で信仰対象と認識されていたという事になります。しかしかくれ信仰で安満岳の奥の院様をどのような対象と認識していたのかは不明です。以前、元触のかくれ信者が安満岳の奥の院様の前でオラショを唱えた事がありますが、これは伝統的な形ではなく、一過性のイベントとして行われたものに過ぎません。また安満岳の奥の院様が神寄せに普通に登場するのは、生月島南部の山田集落のオラショだけです。
 昭和初期の生月島民は安満岳を「お山様」と呼んで信仰対象とし、大祭の時などには大勢が参拝していました。また生月島内には安満岳を信仰する組である「お山講」も組織されていました。例えば山田集落日草にあったお山講は、もともとかくれ信仰の組(垣内)だったものが、同信仰の組として解散した後に発足したものでした。また舘浦で18世紀初頭頃に始まったとされる、盆明け頃に行われる須古踊りでは、舘浦南部の潮見遊園地(公園)でお山(安満岳)に対する奉納踊りを5回行います。
 こうした生月島民の安満岳に対する信仰は、太古の海民による山に対する素朴な信仰(原始神道)を起源とした事が考えられますが、山自体はもともと不入の聖地だった可能性があります。その後12世紀になると安満岳山頂に、山の下の海を通る航路「大洋路」の交易活動に関与する中国人海商(綱首)が寺院(西禅寺の前身)を建立し、航海の安全を祈願して石塔(薩摩塔)を寄進します。この寺院の仏教等の要素は、中世の生月島民にも大きな影響を与えたと思われます。
 16世紀中頃、生月島や平戸島西岸にキリシタン信仰が広まると、安満岳の仏教寺院は反キリシタン勢力となりますが、キリシタンとなった島民は安満岳に対する信仰心を失う事無く、キリシタン信仰に取り込む形を採り、神寄せの中に「安満岳の奥の院様」を加えた事が考えられます。
 江戸時代、禁教に入ると生月島では(かくれ)キリシタン信仰と仏教、神道が並存する形となり、かくれ信仰でオラショの神寄せの中に「安満岳の奥の院様」が挙げられるとともに、神仏習合の形である安満岳の西禅寺・白山神社に対する信仰では安満岳への参拝が行われます。それを反映して18世紀初頭期に始まった盆踊り(須古踊り)でも、安満岳に対する踊りの奉納が行われます。このように対岸に秀麗な山容を見せている安満岳に対する生月島民の素朴な信仰は、時代毎に流入した仏教、キリシタン、神道、芸能行事などに反映されて、こんにちの重層的な様相を形作ったと考えられるのです。
 (2025年3月 中園成生)




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