長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:生月島の羽指踊の発見

生月学講座:生月島の羽指踊の発見

 令和5年4月に放送されたあったNHKの『歴史探偵』という番組で、葛飾北斎の名作「神奈川沖波裏」に描かれた三艘の押送船は、大波に向かう一艘の船を時間経過に従って表現しているという事を知りました。このように江戸時代の錦絵(浮世絵)には、二次元の中で時間経過を表現する場合があったようですが、この手法は天保3年(1832)に制作された生月島の益冨・御崎組の操業を紹介した捕鯨図説『勇魚取絵詞』でも確認する事ができます。
 それを確認した端緒は十年以上前に遡ります。生月島に継承されてきた鯨唄「生月勇魚捕唄」のなかに羽指(ハザシ)踊り唄というのがありますが、この唄では元々、唄に合わせて羽指踊りという踊りが行われていました。『勇魚取絵詞』の「生月御崎納屋場羽指踊図(以下「羽指踊図」と略)」には、二挺の締太鼓の拍子に合わせて円形に並んで踊る30人の羽指達が描かれています。同図の解説文によると、羽指踊りは鯨組の組出(操業開始)前、正月九日の夜、組上り(操業終了)の際の計三回行われたそうです。
 当時、生月勇魚捕唄を継承する生月勇魚捕唄保存会の会長を務められていたのは、益冨家の当主・益冨哲朗さん(故人)でしたが、益冨さんはかつて行われていた羽指踊りの復活を熱望されていました。羽指踊り唄と踊りは、益冨組終了後も明治時代に平戸瀬戸の銃殺捕鯨に羽指として従事されていた壱部浦の浜崎勇蔵さん達によって継承され、昭和28年(1953)6月には壱部港の北波止を建設する際の中上げ行事で、当時の青年達によって復元披露されていますが、それ以後披露される事はありませんでした。益冨さんは、踊りの復活を保存会の副会長・豊増一郎さんに相談され、豊増さんは鯨唄と踊りが残っている有川の鯨唄を参考にして再現する事を考えておられましたが、実現しないまま豊増さんも益冨さんも亡くなられてしまいました。
 有川の鯨唄を参考にしても、本来の生月島の羽指踊とは異なるので、創作に近い復元の域に止まるのですが、実は生月島の羽指踊の手足の所作が意外な形で残っている事に気付きました。何かの調べ物をするために『勇魚取絵詞』の「羽指踊図」を見ていた時に、ふとその図に違和感を感じたのです。それまで調査で、様々な民俗芸能の複数人数で行われる踊りを写真撮影する事がありましたが、写真には、踊りのある瞬間の所作が記録されるので、踊っている全ての人は(若干ずれる場合はありますが)基本的には同じポーズになっています。それは写真という動きの一瞬を保存する媒体では当然の事です。しかし「羽指踊図」に描かれた30人の羽指達は、各自が取るポーズがずれているというレベルを越え、全員が全く別のポーズを取っていたのです。そこで気付いたのは、この図は、並んでいる羽指のそれぞれのポーズで、踊りの動きを紹介しているのだという事でした。そこで試しに個々の羽指の絵を切り取って順番にパソコンの映像として取り込み、スライドショーの機能を使ってパラパラ漫画のように出していくと、図が重なっていて分からない部分はありましたが、ある程度手足の所作や身体の向きの動きを確認する事ができました。
 映画もビデオも無い時代、絵という二次元表現を用いて踊りという四次元の存在を記録して伝えようとした先人の知恵には、頭が下がる思いがします。
(2025年3月 中園成生)




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