生月学講座:生月杜氏の活躍
- 2024/11/13 11:45
- カテゴリー:生月学講座
以前「蔵人の仕事」で、酒造りの作業について簡単に紹介しましたが、今回は蔵人を束ねる杜氏さんについてお話しします。
造り酒屋というのは、酒の製造をする酒蔵と、出来た酒を販売する部門からなっています。杜氏は酒蔵の責任者で、蔵子(蔵男)を束ね、いい酒が出来るように努めるのが仕事です。池田光次さんによると、蔵子の統制さえ出来ればかなりの質の酒ができるそうです。 蔵男としての働き始めは使い走りからで、その間に仕事の内容を見て覚えますが、ある程度慣れてくると、各職の見習いに就いて専門的な作業を覚え、熟達すると責任者となります。昔から麹造りの責任者「麹屋」、酒母の責任者「もと廻」、それに副杜氏「蔵一」の三職を三役といいましたが、例えば小値賀島では「酒蔵に行って三役になるくらいでないと嫁の来手が居らん」と言われる程でした。三役の後、杜氏になる形が多かったようです。杜氏には大変権限がありましたが、特に昔は、雨にも濡れないように大事にされたといいます。なかには口やかましい杜氏も居て、例えば佐賀の天吹で昭和20年頃杜氏となり、その後40年程杜氏をしていた堺目の故・船原金一さんも相当やかましかったそうですが、その分人を育てるのに熱心で、配下からはたくさんの杜氏が出たそうです。
松山鮎蔵さんは、対馬の美津島町にある白嶽酒造に入り、そこで杜氏となり30年程過ごします。最初は杜氏でなかったのですが、地元出身でずっとやってきた前任の杜氏さんが、新しい技術や経験に疎くなって酒の質が落ちていたため、社長から請われて杜氏として働くこととなりました。当時の蔵男は、何年かで勤める酒蔵を代わり、何軒もの酒蔵での経験を持つのが普通でしたが、多くの経験を積む事が、毎回違う環境の中で行う酒造りにとっては大切なことだといいます。松山さんは杜氏をしている間、全国新酒鑑評会で何度も金賞を取ります。特に辞める前には、受賞の難しさを知っている社長からいわば引き留める口実として「もう一度金賞を取ってくれれば、辞めても文句は言わん」と言われましたが、見事翌平成6年に金賞を取り、社長も口実をなくしてしまったそうです
加場安吉郎さんも、福岡の萬代酒造で働いていた頃、生月の杜氏組合を介して、平戸の福田酒造の杜氏にと声が掛かりました。しかし当時、福田酒造の「福鶴」の評判は地元でも散々で、加場さんもさんざん悩んだ末に引き受けます。そうして水も濾過して使うなどいろいろ改めた末、福鶴を金賞を取るような酒に育てた上で、平成六年に志々伎の方を後任の杜氏に据えて引退します。福鶴に「生月杜氏の酒」というラベルがあるのは、このような理由があるのです。しかし昭和の終わり頃になると、優秀な杜氏はだんだん少なくなっており、加場さんの後任についても、一つには生月に適任者がいなかった事もありました。池田光次さんも、船原さんの後任で天吹の杜氏になった後、一旦引退しましたが、大分の中野酒造に請われカムバックしたそうです。
昭和25年頃には生月出身の杜氏だけで12~3人、蔵男まで合わせて百数十人を数え、生月杜氏組合という団体もあって盛んに勉強会を開いていましたが、近年、酒造りは年間を通して働ける職でないという理由等で人気がなく、今では数えるほどになってしまいました。(中園成生)