生月学講座:大敷網の起源と伝播(その1)
- 2024/11/13 11:52
- カテゴリー:生月学講座
生月学講座:大敷網の起源と伝播(その1)
大敷網はこんにちでも生月島沿岸にある大規模定置網の呼称として用いられていますが、本来は江戸~明治期に行われた定置網の漁法の名称です(こんにちの定置網の漁法の正式名称は「落網」)。生月島で行われた大敷網には、奥が狭い台形の形をしたちりとり形の身網が海岸と並行方向に口を向けて設置され、網口の両側には斜めに伸びた袖網が付いていましたが、生月島の沿岸では18世紀初頭の享保年間には専ら鮪を捕獲する網として存在した事が、益冨家文書などで確認できます。
山口和雄先生が昭和32年(1957)に著した『日本漁業史』では、日本国内の古式の定置網には4つの系統があり、そのうちの長門・肥前を中心とするものが「南西系大敷網」で、それは長門国(山口県)豊浦郡湯玉浦で江戸時代初期(元和年間)に創設された小型の湯玉敷大敷網が五島方面に伝わって、独特の鮪大敷網が成立したとされています。また明治32年(1899)の『第二回水産博覧会審査報告』(以下『審査報告』)では、大敷網には雑魚が主対象の小型の湯玉敷と、鮪が対象の大型の五島敷があり、五島敷にはさらに、大型だが強い潮流の場所には向かず明治後期には用いられなくなった小値賀敷と、明和4年(1767)に西村団左衛門が発明したとされる鯨や大群の鮪を取るのに適した正山敷があるとしています。
氷見市立博物館の小境卓治元館長のお話では、富山湾岸から能登半島にかけての海域では16世紀末期頃迄に、海岸と直角方向に(沖に向かって)壁のように伸びた長い道網の先に、網口を海岸に向けて身網を付けた「台網」という定置網漁法が成立しています。台網の身網の奥辺には、網の上辺を浮かしておくためのダイという丸太を束ねた浮きが付いています。このような位置のダイの付け方をとりあえず「横ダイ式」と呼んでみますが、沿岸流で網が引っ張られないように、ダイを海岸と並行方向に置いた事が考えられます。
富山湾周辺の台網の技術は日本海を西進したようです。明治初期の島根半島の漁法を紹介した「漁業慣行」掲載図では、岸から垂直方向に伸びた狩(垣)網の先に、網口を岸に向けた(本網軸線が海岸と直交方向の)横ダイ式の身網が付いた、台網と同様の形の定置網が確認でき、またこの網が「大敷網」と呼ばれていた事も確認できます。
また『山口県豊浦郡水産史』所収の元禄5年(1692)成立の「吉見浦正吉浦今度網場出入申に付て取扱仕候次第之事」には、「大敷網と申網、中の崎と申所へ自今以後正吉浦より敷申共」という記述が確認出来ます。ここに「大敷網」という名称が登場するのですが、文中「大敷網ともうす網」という書き方をしている事から、文書が作成された時期に新たに認識された名称である事が窺え、ここで大敷網と呼ばれている網が17世紀末頃に長州に伝播した事が考えられます。なお明治15年(1882)の「水産慣例原稿」に掲載された長州北浦各所の「大敷網」の図を見ると、岸から長く延びた道網の先に、横ダイ式の箕形本網が網軸方向を岸と直交(網口を岸に向けた)に付けたものが多く見られます。このよう山口先生が大敷網の起源とされた長州では、実質的に富山湾周辺の台網と同じ形の定置網を「大敷網」という名称で呼んでいた事が確認できますが、それは次に紹介する九州方面の大敷網とは大きく形態か異なるものでした。
(2025年3月 中園成生)









