長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:かくれキリシタンの画期

  今年度(令和6年度)は生月島のかくれキリシタン信仰にとって画期と言える年でした。令和6年3月末に堺目の組が解散、7月には元触辻垣内が解散しました。元触小場垣内も令和7年元旦の行事で解散となります。これで生月島の垣内・津元クラスの組で残るのは山田集落の1組(2軒で継続)だけとなり、他にはお札を祀る小組がいくつかと、個人で御神体を祀ったり、オラショを唱える家が残るのみとなります。生月島では永禄元年(1558)と同8年(65)の籠手田・一部領の一斉改宗でキリシタン信仰が広まった事を考えると、467年ないし460年目の画期(ピリオド)となります。
 生月島の(かくれ)キリシタン信仰には、これまで何度か大きな変化の時期がありました。最初は籠手田氏・一部氏の退去を契機に実質的にキリシタンが禁止となった慶長4年(1599)で、この後教会や十字架は破却され、信者はキリシタン信仰のみの形から、仏教や神道を並存させる信仰構造への変化を余儀なくされますが、キリシタン信仰でも信心会(コンフラリア)を新たに組織し、聖画を祀って行事をおこなっていきます。この信心会が垣内・津元の起源ですが、こうして成立した組織と信仰のあり方が、結果的に250年を越える長い禁教時代の期間、信仰を維持させる事となります。
 明治6年(1873)にキリスト教の禁制が解ける頃にカトリックの再布教が始まりますが、その時期が第二の変化期です。生月島では山田や壱部の一部かくれ信者がカトリックに合流しますが、先祖を祀る仏壇の処遇の問題とともに、ムラ・イエ共同体と不可分に結びついた強固な信仰組織が、かくれ信仰の存続の支えになっています。また信仰組織がおこなっていた生業や生活で必要とされた儀礼の存在も、生業・生活のあり方が大きく変わらない限り、信仰を継続する理由付けとなりました。かくれ信仰には教義を管掌し儀礼を創造できる専業宗教者を欠くという弱点があるため、キリシタン信仰の儀礼をそのまま続ける事しか出来なかったのですが、社会構造や生業形態が変化しない限り、問題はなかったのです。
 しかし明治後期以降、生月島の産業構造に変化が起こり、それが次第にかくれ信仰に影響を与えていく事になります。明治後期に和船巾着網が興ると、かくれ信仰の中心地である在部(農村部)の人々も乗子となり、収入を得るようになります。昭和初期以降になると巾着網が動力化してまき網となり、昭和20年代以降規模の拡大により在部からもまき網船に大勢乗り込むようになります。他方、在部からは港湾建設業や酒造業の出稼ぎも盛んになり、農業よりそれらの仕事の方が多くの利益をもたらすようになります。農業においても牛に代わって機械が使われるようになると、農業儀礼に重点を置くかくれ信仰の意義は縮小し、また医療の発達で病気などに対応した儀礼の意義も縮小します。
 生月島の遠洋まき網は昭和40年代の北海道・東北出漁で最盛期を迎えます。その頃には本来かくれ信仰に従事する青壮年はまき網船に乗り込み、隠居の老人が代理で行事に参加する事で信仰が維持されました。しかし平成に入ると遠洋まき網漁業や港湾建設業が不振となり、青壮年が島外で就業するようになって人口減少が進みます。それによってイエの存続が厳しくなった事が、かくれ信仰衰退の最大の原因だと言えます。   (中園成生)




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