長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:先端郭型城郭再考

 2023年の『島の館だより』の拙稿「北松城郭考」では、北松地方の小規模城郭には〔先端郭型城郭〕〔松浦式囲郭型城郭〕〔縁辺郭型城郭〕の三つの類型があるという試論(モデル)を呈示していましたが、その後の調査の成果などでさらに考察を深める事ができました。先端郭型城郭は急な斜面を持つ舌状丘陵を利用して設けられていますが、「北松城郭考」ではこの形式の城について、丘陵の根元側を「堀切」という溝で切断し、先端側の三方の斜面を急斜面や「切岸」という人工の段差を設けて防御した城と定義していました。その前提として、城とは、敵の侵攻戦闘に対して様々な防御装置を設けて、城内の味方の生命財産を保護する空間的存在で、城内は様々な遮断装置で城外と隔絶されている空間だと捉えていました。しかし様々な城を見ていくと、必ずしも城域線の全周が遮断されている訳では無い事を知りました。
 平戸島中部の紐差は、永享6年(1434)の永享合戦以後、松浦義が侵攻して押領された地域ですが、迎紐差の背後にある南に延びる舌状丘陵の先端には、紐差の在地領主の城だと思われる紐差城があります。この城は平坦な尾根上に堀切を、その両側の斜面に縦堀を設け、堀切の丘陵先端(城内)側に堀の残土を積んだ土塁を設けています。しかし人工的な遮断装置はそれらだけで、城内(曲輪)となる丘陵先端側の平坦な尾根の周囲は自然の斜面だけです。その三方の斜面には、先端の一部に登攀が困難なレベルの急斜面もありますが、大部分は急ではあるが登攀可能なレベルの傾斜です。また曲輪も自然の尾根をそのまま用いているため、平面形で円や楕円を選択しているとは言えません。このように先端郭型城郭は、屋形近傍の比較的急な斜面を持つ舌状丘陵を敵の急襲を受けた時の避難所(殿山)とした上で、守りが弱い尾根伝いの部分に掘切と縦堀による遮断装置を設けて防御を強化した城だと言えます。しかし曲輪の周囲の斜面は遮断には至らない難動程度の効果に留まる傾斜のため、城域線全周の遮断は不完全な状態だと言えます。
 生月島舘浦の殿山についても、北側の斜面が急峻とまでは言えない事から、紐差城と同様の城だった可能性が高いと言えます。また永享合戦で松浦氏が立て籠もった白狐山についても、「北松城郭考」では城域線の遮断が不完全な点から城では無いと推測していましたが、北側の台地と接続する部分の両側の斜面にある縦堀(肥前堀・筑後堀)とセットで堀切が現在の正宗寺跡の地点にあったと想定すると、やはり城域線の遮断が不完全な城だった可能性を否定できません。
 時代を下り、明応3年(1494)の合戦の主戦場となった箕坪城についても、山頂から派生する尾根に複数の曲輪を展開する点では本格的山城なのですが、人工的な遮断装置だけに注目すると谷間曲輪の南側にある一組の堀切・縦堀だけで、後は自然の急峻な斜面を遮断装置に利用している事から、一組の堀切・縦堀のみを設ける先端郭型城郭の「思想」を継承する城だと言えます(なお東・西・谷間の曲輪を囲む石垣は、平地面を確保する目的のもので、織豊系城郭の石垣のような遮断装置ではありません)。
 さらにその思想は慶長4年(1599)松浦鎮信(法印)によって築かれた日ノ岳城の、南西側の尾根を遮断する堀切・縦堀まで継承されます。但し同城では周囲の斜面に遮断装置としての石垣を巡らしていて、城域全周の遮断を追求している点が進歩だと言えます。       (2025年5月、中園成生)




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