長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:鯨船の幟旗「印」

生月学講座:鯨船の幟旗「印」

 今年(令和7年)は益冨組捕鯨開始三百年にあたるため、企画展やシンポジウム、益冨家住宅の公開などの事業が計画されましたが、そのなかに益冨組の鯨船が使用した幟旗の復元というのがありました。この幟旗の事を「印」と言い、益冨組の牛の角の紋と二本の横線を紺地に白で染め抜いた縦幟と、縦に三つ切れ目を付けた白い幟が付いていました。
 この印の用途はいくつかあり、例えば生月島沖に来遊する鯨を見つけるために、山見(海際の高所に建てた鯨を見張る小屋)が置けない北方の沖合に配置された番船(勢子船)で鯨を見つけた時には、陸の山見などに報せるために印を用いました。『勇魚取絵詞』「生月御崎沖背美鯨掛取銛突図」の解説文によると、背美鯨が来た時には船の舳(へさき)に印を立て、その鯨が子持ち(子連れ)の場合は加えて艫(船尾)に水掉に苫をかけて立てました。座頭鯨の場合は船の艫に印を立て、その子持ちは舳に水掉に苫を掛けて立てました。長須鯨は艫に小指印だけを立て、その子持ちは小指印の下に白旗を付けました。兒鯨(克鯨)は船の表に印を少し傾けて立てました。こうした合図を陸の山見が遠眼鏡で確認して、待機する勢子船などに報せたと思われます。また「生月御崎沖座頭鯨網代追入図」には鞍馬の山見の前で印を前に突き出した男性が描かれ「セコ船ヲ招」と書かれていますが、網代近くの山見では勢子船を鯨の位置まで誘導するのに印を使っていました。
 また印は捕獲の際にも用いられており、銛突の際に最初と二番目に銛を突いた勢子船は艫に印を立てるしきたりでした。『勇魚取絵詞』の「(同)背美鯨掛取銛突図」には、網を被って進む鯨の横にいる勢子船に「一番ヨロズ」と注が書かれ、その艫には印が立てられています。また「(同)背美鯨一銛二銛突印立図」にも艫に印を立てた勢子船が三艘確認でき、解説文には「一番萬、二番萬を突て船の艫に印を立て」とあります。
 この幟旗を3本製作し、夏に開催される舘浦競漕船(セリブネ)大会で、競技を行う3艘のテント船に立てるという案が出たのですが、実行委員会で「幟が風の抵抗になって競技の妨げになる」という理由で否決され沙汰止みとなりました。その際に改めて『勇魚取絵詞』の各場面を確認してみたのですが、鯨を網に追い立てる場面の「生月御崎西沖下鯨見出図」や「生月御崎沖座頭鯨網代追入図」には、印を立てている船は一艘も無い事に気づきました。この過程の勢子船は鯨を追跡するため速度が必要で、印を立てると抵抗になるので無いのが当然です。一方、最初に紹介した鯨を見張る番船は沖合に船を止めているので問題無く(そもそも幟を立てないと仕事にならない)、一番銛、二番銛を突いた勢子船も船が鯨に曳かれている状態なので、印は邪魔にならないばかりか、かえって鯨の力を削ぐ助けとなります。その後の剣突の場面を描いた「(同)座頭子持鯨剣切図」や、動きを止めた鯨を持双柱に掛ける場面の「(同)持双船鯨掛挟漕立図」、鯨を持双掛けした船団が納屋場に向かう場面の「(同)鯨掛取漕込図」でも、勢子船や持双船の舳に印が立ったり、印を振っている様子が描かれていますが、いずれも速度が求められない過程で、鯨を取った喜びを示すために印を立てたり振っているものと思われます。なお漁期始めに船団が壱部浦から御崎浦の納屋場に出発する場面の「生月一部浦益冨宅組出図」でも、発進する全船が舳に印を立てています。これなどはこんにち遠方出漁する遠洋まき網船がフライ旗を飾り付けるのと同様に、漁が始まる晴れがましい意識の反映だと思われます。
(2025年10月 中園成生)




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