長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.001 「あるかくれキリシタン研究者の生涯」

-御前様に魅せられて- あるかくれキリシタン研究者の生涯

 捕鯨と並ぶ、生月島独自の文化であるかくれキリシタン信仰は、その起源であるフランシスコ・ザビエルの布教から、今年で丁度四五〇年にあたります。この島の先祖達は江戸時代の厳しい弾圧を堪えて信仰を守り、明治のキリスト教解禁を迎えますが、禁教の間に確立した、御神体と共に殉教者や先祖を強く意識した信仰の形を変えることは難しく、大部分の信者は禁教時代の信仰を続け、外部者に対し信仰を秘匿し続けました。元触で伺った話では、夏の土用に御神体を虫干しする際は、昔は門口に見張りを立てていたそうです。
 昭和六年(一九三一)二月一五日、一人の男が島に降り立ちました。彼の名は田北耕也。明治二九年に奈良県に生まれ、大学の助手や教師をしながら、昭和四年から長崎県下に残るかくれキリシタン信仰の研究を手がけ、既に外海、五島などにも渡って調査を行っていました。生月島にもこの信仰が継承されている事を聞き及んで渡島した時、彼は三四歳の若さでした。そしてこれが、七〇年後の今日まで続くかくれ研究の始まりだったのです。
 田北先生は、まず小学校に行って話を伺いますが収穫は無く、次に役場に行って当時の増山村長に調査の目的を疑われますが、横にいた松永助役に、助役が属していた組の神様を拝ませてくれるよう願い出ました。そして組の家々の合意を得た上で、旧暦の元旦に当たる二月一七日に松永助役の家の納戸に入り、御前様である聖母子のお掛け絵にまみえる事が出来ました。その後も調査を続け、成果を纏めた『昭和時代の潜伏キリシタン』という大著を昭和二九年に出版しました。その後、名古屋の南山大学の教授になっています。
 田北先生は調査にあたり、昭和初期には珍しかった写真機を大いに利用しました。人物の撮影して写真をあげる代わりに、行事や御神体の写真を撮させて貰ったのです。そのため彼が撮った写真の中には、信仰とは直接関係のない当時の人物や風景写真も沢山ありました。これらの写真は先生の死後、長崎純心大学に寄贈されましたが、大学側の好意で島の館が複写させていただき、「議会便り」などで折々紹介されています。
写真の中には、田北先生と信者の関係が時代とともに変わっていた事を表すものもあります。例えば調査を開始直後の昭和六年に撮った、壱部・岳の下津元の「上がり様」行事の写真では、警戒されたのか行事後の宴会をニワ(土間)から撮すのだけ許されたようですが、昭和二〇年代の同じ津元の土用中寄り行事の写真では、座敷に上がってオラショを唱えている場面を撮っており、先生が信者から受け容れられていた事が分かります。
 田北先生は、長崎にいた頃、のちにアウシュビッツの聖者と呼ばれるコルベ神父に大変世話になっており、昭和一三年にはカトリックに入信しています。しかし、かくれキリシタンの信仰を守っていく事の大切さを常々説いておられたそうで、昭和五八年、堺目の焼山にかくれキリシタン信者の御堂が建つ際には寄付をした程でした。また名古屋市にあるご自宅の祭壇には、日草の垣内が祀る聖母子のお掛け絵の複製を作ってそれを拝んでいたそうです。田北先生は平成六年に亡くなりましたが、今日でも先生の研究を土台にして、かくれキリシタン信仰の事を知りたいと島を訪れる人は後を絶ちません。

 




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