長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.002「カツギ漁」

 中国の歴史書『魏志倭人伝』には、今から二千年ほど前、松浦地方の人々は、水に潜って魚や貝を取っていたと記されています。また奈良時代に編さんされた『肥前国風土記』にも、この地域に白水郎と呼ばれる潜水漁民が居たと記されています。
 生月島の壱部浦では、現在も海士(男の潜水漁師)によるカツギ漁(潜水漁)が行われています。江戸から明治にかけての時代、壱部浦の海士は、夏は鮑を取り、冬は鯨組でハザシを務めていました。ハザシとは、鯨に銛を投げたり、鯨に泳ぎ渡って鼻を切る重要な職務です。鮑も、乾燥させたものが、長崎から盛んに中国に輸出されていました。
 昭和の初めごろのカツギ漁の様子を、壱部浦に住む尾崎常男さんに伺いました。尾崎さんは、昭和6年に高等小学校を卒業した後、昭和7年から10年間程海士船のトモネリ(船頭)を務めました。昔は、壱部浦の高等小学校を卒業すると、ワッカモンはトモネリの加勢をしながら、カツギの訓練を始めました。当時、壱部浦の海士は、生月島の北半分の磯の他に、的山大島や度島、二神島まで出漁する事もありました。漁期は、旧暦の5月の節句頃を始まりにして盆の13日までが一つの漁期で、その後、盆過ぎから、西風が冷たくなる10月中ばまでの漁期をアッキャ(秋貝)と言いました。
 昭和初期、壱部浦には5~6艘の海士船(テントブネを用いる)がいました。それぞれ6~7人の海士が乗り込み朝の8時頃に出港し、夕方6時くらいまで漁をしました。昔は、今のようなウエットスーツは無く、カエマワシという褌をつけただけの裸体でした。また水中眼鏡も、昔は、縁を真鍮や洋銀で作ったイッポウガンでした。潜り方には、10尋まで潜る普通の素潜りの他に、分銅を使って15尋以上まで一気に潜るドンブリカツギという方法がありました。ドンブリカツギをする場合、分銅や潜り手を引っ張り上げる人手が必要なため、海士の半分は船に残って引き役を務め、時折潜り手と交代しました。
 トモネリは、海士が潜りながら徐々に前進していくのに合わせ、櫓を漕いで船を進めていきますが、時には「息をつめる」といい、海士が海中で息を使い果たし、水を飲んで意識不明になって上がってくる者もいるので、注意を怠れませんでした。
 漁を始めてから休憩のために船に上がるまでをヒトシオといい、暑い時は2時間程、寒い時は1時間半程で、暑い時期は1日4~5シオでした。長く潜っていると体が冷えるため、休憩には船上のイロリに火を焚き、太陽熱と火で半時間ほど体を暖めました。また麦飯をガガ(お櫃)一杯に詰め、12時、3時と夕方帰る頃の3度も食べて力をつけました。
尾崎さんの船は、大島にトマリカツギ(他の漁場に宿泊して漁をする)に行った時、これまで知られていなかった漁場を見つけました。そこには鮑が岩に二重に重なってびっしりと付いていて、思わず「おーばんげなみごとなもん」と言った程でした。そこでしっかりと山アテ(景色の重なり具合で海上の位置を知る)をして位置を覚え、他の船をうまくまきながら4日間、大漁を続けましたが、最後には見つかってしまったそうです。
 昔は1日9貫も鮑を取る海士がいたといいます。それは海士の技術だけでなく、生月の磯がそれだけ豊かだったからでしょう。そのような磯を何とか取り戻したいものです。

 




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