長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.012「大敷網」

 もとの松本大敷納屋の横に、花崗岩製の石塔が一基残っています。刻んである文字を読むと、今から二百七十年近く前の享保十一年(一七二六)に、平戸本町の山口屋茂左衛門という人が、水難者の供養のために建てられたもののようです。この人物は、当時松本で大敷網を経営していた網主だったと考えられます。
 生月島では、沿岸にある大規模な定置網のことを一般に「大敷網」と呼び慣わしていますが、今日の網の形態は正しくは「落網」といい、大敷網という呼称は、江戸から明治にかけて使われていた網の形態に由来しています。この大敷網は山口県の湯玉浦で発明され、寛文年間(一六六一~七三)に平戸地方に伝わったとされています。江戸の絵師、司馬江漢は、天明八年(一七八八)から翌寛政元年(一七八九)にかけて長崎旅行をおこない、旅の様子を絵と文で紹介した『西遊旅譚』という書物を残していますが、江漢は、帰り道で益冨組の捕鯨を見るために、生月島に一ヶ月ほど滞在しています。『西遊旅譚』には捕鯨の場面の他に、島の沿岸にいくつも張られた大敷網や、魚群を見張る楼(ヤグラ)、松本大敷の鮪漁の場面なども掲載されています。大敷網は箕のような形状をしており、鮪の群れが網の中に入ると、逃げないように直ちに広い網の口を上げる必要があるため、高い楼に見張りを置き、また四艘の船と乗員が網の口につねに待機していました。
 大敷網は、まだはっきりと分かっていませんが、恐らく明治後半から大正にかけての時期に、効率的な「大謀網」へ切り替わっていったようです。大謀網は、簡単に言えば鳥籠のような構造で、魚群が袋網の中に入ると、取りあえず入口に小型の網を張って塞いでしまいます。壱部の破戸光雄さんの話では、大謀網にもヤグラ(見張り楼)があり、そこからの合図で網の口に待機していた船が素早く口網を張り上げてしまい、その後で岸に係留していた網船二艘が出てきて、網をたぐって魚を上げたそうです。また中には、昭和十六年(一九四一)頃、田平の横島や一六で鮪の大謀網を経営していた舘浦の白石治助さんのように、よその漁場に進出する人もいました。
 生月の大謀網は、昭和初期には現在の落網に切り替わっていきます。落網は、網の口がジョウゴのように先細りになったノボリという構造になっていて、一度入った魚は逆戻り出来ません。そのため、これまでのようにヤグラの見張りや、口網を閉じるために船と乗員を常時待機させておく必要は無くなり、毎日決まった時間に網を上げれば良いので、就業的にも楽になりました。破戸さんや白石清さんの話では、白石治助さんが経営していた加勢川漁場で昭和四年(一九二九)頃、富山県の人の指導によって、落網が導入されたのが最初だそうです。またその頃には、生月の各漁場に、佐賀県の神集島・湊(唐津市)や波戸(鎮西町)、宇久島から多くの人達が、網子として働きに来ていたそうです。
 生月の人は、新鮮な魚を食べ慣れているため、よそに旅行に行った時などに、刺身などを食べても、不満を持つ場合が多いようです。三百年もの歴史を持つ生月島の大敷網は、現在も町民をはじめ都会の消費者、観光客に、美味しい魚を届けてくれているのです。

 




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