長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.014「生月島民の戦争体験3 アメリカ軍がやってきた」

 国連の調停にも拘わらず、イラクでは再び戦争が起こる事態となりました。テレビでは砂漠を進むアメリカ軍の戦闘車両が映し出されていますが、せめて一般市民の被害が最小限にとどまるように祈るばかりです。文化財保護審議会の委員の方々から伺った、第二次対戦後に生月島に進駐軍がやってきた時の事を紹介してみようと思います。
 太平洋戦争中、御崎の要塞地帯や長瀬鼻の海軍防備衛所にいた陸海軍の兵士は、昭和二〇年八月一五日に敗戦を迎え、それぞれ故郷に復員していきました。また島から出征していた人々も次第に帰還し、徴用されていたまき網船や港湾建設用の船なども戻ってきて、戦後の復興に向けた取り組みも始まりました。しかし一方で、島内の旧陸海軍の施設は残っており、大砲などの兵器もそのままになっていました。
 『生月町沿革誌』によると、昭和二〇年一〇月三日に中尉に指揮されたアメリカ軍兵士一〇名がはじめて来島します。さらに一一月一五日にも、通訳一名を伴ったアメリカ兵三三名が再び来島しています。これらの来島は御崎や長瀬にあった軍事施設を接収した上で、使用不能にするのが目的でした。
 彼らは、LSTという上陸戦専用の輸送船に乗って壱部の沖にやってきて、宮田の波止あたりから、水陸両用車に乗ったままで上陸してきました。折から波止の所の地面にはイナマキを敷いてアゴが干してありましたが、水陸両用車はそれに気づかず踏みつぶして上陸してきたそうです。彼らは当時里浜にあった生月町役場にやってきて、通訳を交えて打ち合わせをしますが、その時役場職員で従軍経験がある豊永政一さんと西澤辰治さんが案内役として軍事施設まで同行する事となりました。すでにアメリカ兵がそんなに乱暴な振るまいをしない事を聞き知っていたので、島内もそんなに混乱はなかったそうです。
 一行が出発して生月自動車の所に来ると、停めてあった乗合自動車を見てアメリカ兵達は「フォード、フォード」と騒いだそうです。自国の車にこんな離島でお目に掛かるとは思っていなかったのでしょう。道中、子供達に遭うと、車の中からチョコレートなどのお菓子を投げてよこしたので、戦中戦後の窮乏生活で菓子など滅多にお目にかかれなかった子供達は、我先に貰って食べたそうです。また御崎に向かう途中の山の中で、アメリカ兵達は車を停めると、案内の二人に車から降りるよう指示し、藪の前に立った二人に銃を向けたそうです。二人はてっきり射殺されるのではないかと覚悟しますが、アメリカ兵達も降りて立ち小便を始め、それで用心のために降ろして監視したのだと分かったそうです。御崎では、ミンチマ山にあった一五㌢砲台に爆薬を仕掛けて爆破し、大砲は破壊されましたが、コンクリートの施設は殆ど壊れなかったそうです。
 夜になると、兵隊達は生月小学校の講堂に宿営し、将校だけはくらた旅館に泊まりましたが、その時、恐らくは子供か青年が、この間まで敵だったアメリカ兵に目にもの見せてやれと、講堂に石を投げて窓ガラスを割る事件を起こします。それに怒った兵隊達は犯人を差し出せと騒ぎだしますが、役場の人達は何とか事を収めようとして、交渉に来た軍曹を役場の宿直室に連れて行き、女子職員をずらりと並べて酒宴をやったところが、すっかり機嫌が良くなり、翌日にはお菓子などをどっさりくれたそうです。

 




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