長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.016「お墓の話」

 原始・古代については、弥生時代に海岸際の砂丘に墓地が形成された可能性がありますが、明らかな形で残る最も古いお墓は、古墳時代にあたる今からおよそ1,400年前に造られた古墳です。島内には数基の古墳が確認されていますが、例えば日草の富永古墳は、盛土の内部に、大きな石でつくった部屋が作ってあります。その後の中世の墓ははっきりと分かっていませんが、島内の各所で見つかる五輪塔が当時の墓石だろうと考えられます。
 キリシタンの時代には、宣教師の報告を読むと、信徒は大きな十字架を立てた場所に墓地を設けたとされています。殉教者であるガスパル西玄可がそこに葬られたという伝承から、現在の山田の黒瀬の辻が墓地の一つではないかと考えられます。ここには西一族の墓所と伝えられる場所がありますが、そこには石を積んで作った方形の基壇が残っています。そのうち手前の方には横長の基壇がありますが、よく見ると、凡そ80センチ四方の区画が横に4つ連なっている事が分かります。同じ形態の基壇は、法善寺の裏の墓地などでもよく目にします。横並びの基壇は一つの家の所有になっていて、土葬が行なわれていた頃は、家族が亡くなると木棺(以前は瓶)に入れて一つの区画に埋葬し、基壇を築いた上にオイと呼ばれる木製の霊屋を置き、経済的余力のある家は数年後に石塔を建てました。そうして次々に区画を使っていって更に新たな死者が出ると、昔埋葬した区画を再び掘り返して使いました。このように新しい墓を増やさず追葬を行う形を取ったのは、平戸藩が定めた新規の墓地を広げないという法令に依ると思われます。昭和30年代頃には火葬が徐々に普及していき、昭和40年代の墓地整理以降には、一家で一つの石塔(累代墓)を建てて、そこに納骨する形がだんだん多くなっていきました。
 それでは、基壇様式の墓の起源はいつまで遡るのでしょうか。先ほどの西一族の墓所の一番奥には、約120センチ四方もある単体の基壇があります。同様の広い基壇を持つ単体の墓の例としては、同じ山田の中で江戸時代初めに山田奉行を勤めた井上家の墓地と伝えられる場所に3基があります。最大で2メートル四方を越える広い基壇で、上には小さな宝筐印塔が載っています。周辺地域にも、根獅子の(伝)小麦様の墓、大島の政務役・井元氏初代・二代目の墓などの例がありますが、いずれも江戸時代の初め頃のものと思われます。特に平戸城下では、慶長4年(1599)没の松浦隆信(道可公)の墓が、約4㍍四方という巨大な基壇を持っており、また慶長19年(1614)没の松浦鎮信(法印公)の墓も3メートルを超え、回りの妻や殉死者の墓も広い基壇を持っています。こうしてみると、広い基壇の墓は江戸時代初期に流行したようで、平戸藩主の墓制が、各地域の有力者の墓に取り入れられ、さらにそれが庶民に普及していったように思えます。しかし寛永14年(1637)没の松浦隆信(宗陽公)の墓になると、5メートル四方近い切石積みの基壇の上に、高さ3メートルを超える巨大な石塔が立ち、お墓への関心は基壇の広さより石塔の立派さに移っていったようです。

 




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