長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.021「まき網漁船団の対馬出漁」

 生月島の巾着網が、網船を動力化して、より沖合への出漁も可能になったのは昭和初年(1925)、壱部浦の井元米吉さんによる長生丸(13㌧、焼玉30馬力)の登場からです。こうしてより遠方まで出漁できるようになった訳ですが、万事順調に発展してきたかというとそうではなく、何度か厳しい局面に立たされます。
網船の動力化は、漁場への往復の迅速化と省力化が主な目的でしたが、結果的に五島方面など遠方への出漁も可能となり、これまでの夏から秋にかけての小中羽鰯の捕獲に加えて、正月前後に到来する大羽鰯も、巾着網の重要な捕獲対象となりました。なかでも昭和14年初頭の冬は大漁で、島は好景気に賑わいました。
 ところが翌年以降、大羽鰯の回遊が目に見えて減っていき、昭和18年頃には全く取れなくなります。生月島の各船団の冬場の操業も先細りとなり、船団の存続も危ぶまれます。その危機を救ったのが対馬の寒鯖漁でした。
対馬の東岸沖合には既に昭和8~9年頃から、舘浦の数船団が、盆過ぎから10~11月にかけて、鯵や鯖を対象にした「夜焚き(夜、明かりで集魚して行う漁)」に出漁していました。動力化した旋網船団は、夏から秋にかけての季節操業だった和船巾着網の頃と違い、周年を通して様々な魚を取るようになり、乗組員も常雇いの形になっていました。また夜焚きだけでなく「昼張り(昼間に行う漁)」もするため、素早く投網出来るように従来の片手回し(網船1隻)から双手回し(網船2隻)の形に変わっていました。
当時、ヨ大福丸船団で網船の船長をしていた柴田市平さんによると、ヨ船団が秋の漁で対馬に行っていた時、対馬の一重というところの問屋の梅野さんから、対馬では冬場によく肥えた寒鯖がたくさん居るという話を聞いて、冬期の対馬出漁を企図します。
 昭和19年1月、第5、第6大福丸の二隻の網船を中心とするヨ船団は対馬に出漁します。最初の漁場は対馬上島東岸の佐賀、志多賀、志越付近でした。当時寒鯖は、岸近くの沿岸部に湧いており、それを昼張りで取ろうとしたのですが、浅すぎて網を底に引っかけ、破網が頻発します。瀬をかわすため地元の人を水先案内として雇ったのですが、あまりに浅場なので、水先案内すら瀬が分からない程でした。正月の寒さの中、ナダナの上で網繕いばかりしている乗組員を見て、問屋の梅野さんは気の毒がって「もう帰れ」と言いましたが、そこに魚が居る以上、取らずに帰るという気にはならなかったそうです。
 何とか網を引っかけないようにしたい。いろいろ考えた末、漁場を黒島の瀬に移し、瀬の上で、水深分になるように網の丈を2/3程にたぐった上、足縄にカマスを付けて網の沈む速度を落とすなど工夫して、ヨ船団は見事、寒鯖の群れの捕獲に成功します。
 その後戦争のため中断しますが、戦後、生月島の各旋網船団は対馬の寒鯖漁にこぞって出漁するようになり、敗戦不況のなか、島は豊漁で活況を呈します。昭和25年頃には鯖が海面近くに湧かないようになり操業に不安を来しますが、強い反対を押し切って導入した魚探で、海中にいる群れを捕捉する電探操業を軌道にのせて乗り切ります。
 厳しい状況にも、くじける事無く新たな方向性を模索し、機を見て切り換えていく。柔軟性とともに決断力や断固とした意志の必要を、昔の人は教えてくれているようです。

(2001年6月)

 




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