長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.027「河童の像と猿の像」

 生月島は面積的にも地形的にも大きな川は無く、沢山の水が常時存在するのはダムや溜池くらいです。また戦国時代末にはキリシタン信仰一色に染まった筈なのですが、何故か水に棲むと言われる河童についての信仰や伝承が沢山残っています。有名なのは壱部の方倉様や、元触の河童が教えた薬の伝説などですが、河童の像が祀られている所もあります。
 平成七年に完成した桜川ダムの堰堤の下にある河童の像は、鯰に乗り、巾着袋を腰に付け、甲羅を背負い頭に皿があり口の尖った愛嬌のある顔をしています。それに先行して昭和五四年に作られた神の川ダムの河童の像は、鯰や巾着袋は同じですが、皿はあるものの甲羅も無く口もそれ程尖っていません。
 神の川ダムと同じ水系にある溜池にも、水に関する石像が祀られていますが、こちらは猿の像と言われています。大正一五年に完成した落木場池のは、立て膝をしておにぎりを食べる姿ですが、古い錠前と巾着袋を持ち、顔や身体には赤い顔料の名残があります。それより遡り、生月における大型溜池の起源と思われる大正三年完成の山頭池の像も、立て膝をつく姿ですが、両手におにぎりのような何やら丸い物を持っています。
 猿は河童が嫌う生き物と言われています。当時の溜池は子供の水遊びの場になっていましたが、溺れる事件も後を絶ちませんでした。またユビと呼ばれる水を落とす装置は、古くは木の栓を抜き差しして調節していたため、吸い込まれる水に足を取られる危険もあったそうです。それらの水難が、水の中に棲む河童のせいにされ、猿の石像が河童封じのために祀られたと考えられますが、時代が下ったダムでは、泳ぐ者がいないせいか、反対に河童が水の神様と意識された部分があるようです。一方で巾着袋などを見ると、溜池に猿の石像を置く風習が、ダムに河童像を置く事やその姿に影響を与えたようにも思えます。
 さて大型溜池が出来る以前には、河童はどのように祀られていたのでしょうか。現在の神の川ダム湖の上にあたるツルイケ橋という場所には、元々ガッパん池という水の溜まった所があり、その傍らにはガッパ石という石があり、周囲に水田を持つ家でお祭りが行われていたそうです。ところが近年ガッパ石が水害で流されたため、それに代わって猿の像を刻んだ石板を祀るようになったそうです。ガッパ石と呼ばれるものは島内に何か所か存在しますが、例えば元触・松本の河口の脇にあるガッパ石には注連縄が張られ、九月のお祭りの時には魚が供えられます。一方で、島の西側の小田にある湧水地に祀られた美天様という祠に祀られている三体の石像のうち、中央の弁財天と思われる女神像を除く二体は頭にくぼみがある河童の像のようで、反対に水の出発点に祀られたものと思われます。
 現在行われている山田の池祭でも、溜池の用水の管理をする水番さんが、池に団子などを放り入れ「ガッパさん団子あがりまっせ」と声を掛けていますが、河童は水番さんと特に親しく一緒に家に付いてきたりするので、晩酌の前に外に酒をたらしてあげたりしましたし、また牛に悪さをするので、牛を多く飼う家では水番を敬遠するのだそうです。
 このように河童はもともと災いもなすが、同時に幸もくれる水の神様と認識され、昔から川の出発点(湧水地)、中流の溜まり、河口などで祀られる形があったようです。

 




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