長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.030「福田浦の海戦と籠手田氏・一部氏」

 永禄7年(1564)の秋、松浦隆信は、ポルトガル船との交易再開を期して、平戸に教会(天門寺)の建立や司祭の常駐などを許しましたが、翌年初頭に行われた一部領の一斉改宗によってキリシタン勢力が増大したことは、重大な脅威に映ったと思われます。さらにそのような脅威感を強めるような事件が、永禄8年(1565)に起きます。
 大村から平戸に向かっていた一艘の船が平戸方の兵によって捕獲されます。この船には、1人のポルトガル人と4人の日本人キリシタンが乗っていましたが、彼らは、大村純忠から籠手田安経に宛てた書状を携えていました。書状の内容は、共にキリシタンである事に依る親愛の情のこもったものだったらしいのですが、松浦隆信は、目下の敵と、自身の最有力の家臣が、こうした書状のやり取りをしている事実に強い危惧を抱き、船に乗っていた全員を殺してしまいます。また隆信の子供・鎮信も、平戸の神父の従僕が持っていたメダルを壊すという事件を起こします。
 このような平戸松浦氏の反キリシタン姿勢は、定航船に対する神父の勧告に大きな影響を与えます。平戸駐在のコスタ神父は、1565年夏頃に来航したポルトガル船が平戸に入港する前に書簡を送り、先の鎮信の狼藉等を知らせた上で、船を平戸に入港させないように勧告します。船の司令官ペレイラはそれに従い、大村領の福田浦(現長崎市福田)に入港させます。前季の入港の際、教会建設などの譲歩をしたにもかかわらず、今季のポルトガル船が福田に入港した事で、松浦隆信はかなり大きな失望を味わったと思われ、結果的に福田浦のポルトガル船を攻撃する決定を下します。
 攻撃に際し松浦隆信は、堺(大阪府堺市)の商人の協力で大型船を8隻借り受け、自らの70艘の水軍と併せて攻撃に向かいます。しかしこの攻撃は籠手田安経には伝えられず、そのため籠手田氏の軍勢も加わりませんでした。攻撃の前日には、平戸のコスタ神父から福田のペレイラらに警告が発せられていますが、同地のポルトガル人達は松浦隆信との友好関係を信じていて忠告を本気にしなかったといいます。しかし翌朝には平戸の艦隊が襲来してきたため、福田にいた大小2隻のポルトガル船と中国商人の船数隻は、一まとまりになって防戦に努めます。ポルトガル船に平戸勢の一部が乱入したものの結局撃退され、またポルトガル船の大砲が堺の大型船を3隻撃破するなどして、平戸側は敗退を余儀なくされます。2時間の戦闘でポルトガル側は8人の死者、平戸側は死者80人、負傷者120人を出します。松浦党の流れを汲み、海戦に相当の自信を持っていたうえ、多数の鉄砲に加え堺の大鉄砲まで使った松浦氏の水軍の威信は、大砲を駆使するポルトガル船の威力の前に破れ去りますが、それは同時に平戸のキリシタンに対する憎悪に繋がりました。
 しかしその一方で永禄9年(1566)の、相神浦松浦氏が守る飯盛城に対する平戸松浦氏の攻略戦には、籠手田、一部両氏の軍勢が加わっており、また同年、五島の反乱に呼応した平戸側の艦隊派遣の際には、籠手田安経が大将を務めています。つまり平戸松浦氏と籠手田、一部氏とは依然主従関係にあり、彼ら自体有力な軍勢を率いている他、卓越した指揮官でもあったため、平戸松浦氏も軽視することはできなかったと考えられます。

(2005年3月)

 




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