生月学講座 No.031「伴天連追放令と生月島」
- 2019/12/17 17:53
- カテゴリー:生月学講座
1570年代以降も、平戸松浦氏の否定的姿勢にもかかわらず、生月をはじめとする籠手田・一部領でのキリシタン信仰は順調に推移します。しかし1580年代に入ると、前途を憂慮させる出来事が起こります。まず、天正9年(1581)年のクリスマスを間近に控えた頃、松浦隆信の親戚でありキリシタンの擁護者であった領主・籠手田安経(ドン・アントニオ)が扁桃腺炎で亡くなります。彼の死は多くの人に惜しまれ、その葬儀にキリシタンやそれ以外から数多くが参列しました。「1581年日本年報」に「彼がキリシタンであることは喜ばなかったが、その勇気と智慮により非常に好意を寄せていた平戸の領主からも惜しまれた」とあり、松浦隆信もその死を悼んだ事が分かります。しかも彼の実弟である一部勘解由(ドン・ジョアン)も、1585年頃までには亡くなってしまいます。彼らの後を、息子である籠手田安一と一部正治が嗣ぎます。彼らは宗教的情熱では決して父親達にひけを取りませんでしたが、松浦隆信が、自分の即位の際に助けてくれた籠手田安経らに感じていたような親近感を、彼らの息子達には持てなかった事は確かです。
天正15年(1587)、九州全土の掌握を図る鹿児島の島津氏と、全国制覇を目指す豊臣秀吉の軍勢が北部九州で激突し、島津軍を撃破した後、秀吉は博多に入ります。前年には久しぶりにポルトガルの定航船が平戸に入港していますが、博多で秀吉に拝謁したイエズス会の副管区長コエリヨは、定航船を博多に回航させる秀吉の要求をやんわりと拒否します。しかしその夜、好意的だった秀吉の態度が急変し、6月19日に伴天連追放令という法令が出されることとなります。それには、日本は神国なので、きりしたん国の邪法(キリスト教)を広めるのは良くないという事や、それ故、宣教師は日本国内から20日の間に出ていくようにという内容が含まれていました。季節風の関係で出航が間に合わないと言うコエリヨの釈明により、船が入る平戸に宣教師全員を集め、出帆するまで留まって良いという事になりましたが、彼は全国の宣教師に事態を報せ、平戸に集まるように連絡します。
平戸地方では、生月島の籠手田領がキリシタン信者が多くいて安心なので、主な受け入れ先となりました。また山田の教会には教育機関である学院(コレジオ)と修練院(ノビシャド)が収容され、堺目の教会にも、もと京都にあった神学校(セミナリヨ)が移ってきました。籠手田安一は宣教師達を守るために300の兵を集め、平戸松浦氏が彼らに危害を加えないように牽制しますが、彼は宣教師に、信仰のために死ぬか、封禄や所領を捨てて宣教師達に同行しマカオに退去する決意がある事を伝えています。
宣教師達は話し合い、自分達が日本に来た目的はキリスト教を広めるためであり、暴君の力に屈することなく布教を継続するために、全員が日本に残る事を決め、それぞれの受け持ち区域に戻っていきます。学院、修練院、神学校も、他の地方に移っていきました。一方で伴天連追放令自体も空文化していき、宣教師も国内で今まで通りの活動を続けても問題になりませんでした。平戸藩領にも4人の神父が残りますが、平戸城下にあった教会(天門寺)は、ポルトガル船の出港後に接収され、米の倉庫にされてしまいました。
(2005年4月)