長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.034「生月島民の戦争体験5 御崎の要塞」

 御崎の神田隆さん達にお話を伺いました。
 神田さんによると、御崎集落の西側にある通称ミンチマと呼ばれる山に陸軍が砲台と観測所を築き始めたのは、太平洋戦争が始まる前の昭和一三年(一九三八)頃だそうです。『本土決戦準備』という本によると、御崎砲台が属する壱岐要塞は昭和一三年末までに要塞工事を終了したとあり、神田さんの記憶と一致します。壱岐要塞には、壱岐水道を通る敵艦を砲撃するために、芦辺町黒崎の四〇センチ砲や、的山大島馬頭鼻の三〇センチ砲などの巨砲が沿岸に配置されていました。ミンチマの砲台にも一五㌢砲二門が配置されますが、御崎浦に陸揚げした大砲を、コロで転がして拝野を引っ張り上げ、地面に掘った壕の中に据え付けたそうです。また山頂に設けられたコンクリート製の観測所は、今も残っています。観測所は、砲撃目標を確認して大砲の上下左右の角度を決めたり、着弾を確かめるための施設で、周囲を見渡せる横長の窓がありましたが、他にも沢山の部屋があり、兵隊が待機したり、砲弾を保管するのに使われていたと思われます。砲台の東側には砲兵の兵舎が建てられ、また周囲には鉄条網が巡らしてあり、地元の人は入れなかったそうです。
 昭和一六年(一九四一)一二月から始まった太平洋戦争も、昭和二〇年(一九四五)に入ると敗色が濃くなり、アメリカ軍の日本本土上陸も近いと予想されていました。それに備えて、各地で守備隊が増強されたり、防御施設が建設されます。その頃大バエ鼻にも、海軍の一四㌢カノン砲二門が配備されます。北斜面に横穴を掘って砲を据え、入口をコンクリートで固めていますが、砲台跡は現在も残っています。また現在灯台がある頂上には、夜の敵機を照らす探照灯と、高射砲が据えられていたそうです。
 またこれらの砲台を守備するため、壱岐要塞の歩兵第六大隊に属する守備隊が、御崎に駐屯してきました。地元の方のお話では、元浦港の南側のタキワキ、御崎集落中央のシンゾウヤマ、水ノ浦の北西側の山に兵舎があり、部隊が駐屯していましたが、特に人家との間に鉄条網などで区切りを作っていた訳ではなかったそうです。またコンクリート製のトーチカ(銃座)など強固な防御施設はなく、人が移動できるようなトンネルや、防空壕、散兵壕(一~二人が入って射撃する竪穴)などが部分的に掘られていた程度でした。また大砲や戦車などの重装備は無く、武器は各自の兵隊が持つ小銃くらいだったようです。当時、御崎の海軍防備隊におられた大分県臼杵市の野上實さんのお手紙によると、当時御崎には陸軍の歩兵、砲兵、工兵などが二~三千人、海軍の兵隊が何百人かいたとあります。
 大砲の弾や食料などは、小さな貨物船で元浦に荷揚げされたあと、車力に載せて運びました。また工事のため雇っていた作業員も、元浦から上がって現場に向かいました。昭和二〇年には、御崎小学校の脇に作業員さん達が集まっていたところを戦闘機の機銃掃射を受け、里免の田崎ナカさん(当時二三歳)が亡くなっています。
 戦争が終わるとアメリカ軍がやってきて、砲などを撤去し、施設を破壊しました。

 




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