長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸史再考No.21 平戸瀬戸の銃殺捕鯨

 

平戸瀬戸の銃殺捕鯨

 

 平戸地方の捕鯨の特徴的な要素はいくつかあるが、今回紹介する銃殺捕鯨もその一つである。銃殺捕鯨は、ボンブランス(爆弾槍)という火薬の力で爆発する弾体を鯨に撃ち込んで仕留める漁法だが、ボンブランスはもともとアメリカで発明された捕鯨漁具である。福本和夫氏の『日本捕鯨史話』では、ボンブランスは1846年にアメリカ人ロバート・アレンが発明したとしているが、トーマス・ライトルが執筆したアメリカ捕鯨漁具のカタログ『HARPOONS AND OTHER WHALECRAFT』によると、O ALLENが1846年に長柄の先にボンブランスを直接装着した漁具の特許を取得している。確認できるボンブランスを鯨体に打ち込む方法には、①柄の先に直接ボンブランスを付け、手で投げて鯨に当てて爆発させる方法(前述のアレンが考案した文字通りの「ボンブ・ランス」)、②柄の先に短筒を付けてボンブランスを装着し、手で投げて鯨に当たるとボンブランスを発射するダーティングガン(ボスカン銃)、③肩の上に載せたバズーカ形の発射機でボンブランスを射出する方法(捕鯨箭)、④ライフル銃型のショルダーガン(肩当て銃)でボンブランスを発射する方法(捕鯨銃)、⑤船体に据え付けた大砲でボンブランスを発射する方法(捕鯨砲)などがあるが、日本の銃殺捕鯨では②と④の方法が行われている。

注意しなければならないのは、ボンブランスの用い方がアメリカと日本では異なる事だ。「アメリカ(米国)式捕鯨」は基本的には母工船型洋式突取法の事だが、この漁法は大型の帆船を捕鯨ボートの母船と、捕獲した鯨を舷側で解体し、船上で鯨油に加工する工船として用い、捕獲はボートから銛やランス(槍)を投げる(洋式)突取法で行なっている。19世紀のアメリカ捕鯨業では、銛を打って鯨とボートを繋げて曳かせた後、ランスの代わりにボンブランスを用いて鯨を仕留めるようになる。つまりランスの殺傷効果を拡大するためにボンブランスを用いた訳だが、こうした状況から、ボンブランスは欧米における前近代(近世)捕鯨の段階の漁法である母工船型洋式突取法の延長上で用いられた漁具だと言える。当時の欧米捕鯨の主要な捕獲対象だった抹香鯨と背美鯨は死後も洋上に浮いているため、ボンブランスによって短期間に致命傷を与えた後の対処も容易だった。

一方、日本の銃殺捕鯨では、まず鯨にボンブランスを撃ち込んで仕留めてから、銛を打って鯨体を確保している。この漁が行われた明治時代以降には背美鯨の出現は稀になっていて、長須鯨や鰯鯨など筋肉質の鯨が主対象となっている(対象変更ができたのは主要産品が鯨油から食用鯨肉に移行していたからである)。ボンブランスで致命傷を負ったこれらの鯨種は急速に沈下するため、直ちに銛を打ち込んで鯨体を確保する必要があった。また銃殺捕鯨でも鼻切り(手形切り)や持双掛けによる運搬など網組と同様の過程が取られたが、これも速やかな鯨体確保・運搬のために必要な過程だった。また平戸瀬戸では山見による探鯨も行われていて、これらの過程の総体が銃殺法という漁法になるが、これは明治時代に西洋伝来の漁具を用いてはいるが、総体的にみると日本の古式捕鯨の範疇に属する漁法である事は明らかである。なお伊豆川浅吉の『土佐捕鯨史』ではノルウェー式砲殺法の事を「銃殺捕鯨」と表記しているが、これだと古式捕鯨に属する銃殺法と近代捕鯨に属するノルウェー式砲殺法を混同する恐れがあるので適切な学術語彙だとは言えない。捕鯨における「砲」と「銃」は船体への固定の有無で区別するのが分かりやすい。

福本和夫氏が『日本捕鯨史話』で呈示した日本捕鯨の五段階の発展段階では、「銛にボンブランス併用による捕鯨業時代」を第4段階としていて、時代は明治20年ないし27年から明治32年までの約10年間としている。しかし実際に銃殺捕鯨が行われた時期は明治15年(1882)から昭和22年(1947)までと広い。また福本氏が設定した時期を含む幕末の1840年代からノルウェー式砲殺法が導入された明治30年代にかけての時期は、いまだ網掛突取法が優越しており、その他に銃殺法、定置網法など様々な漁法が並行して行われている。そのため筆者はこの時代を特定の漁法名では呼ばずに「古式捕鯨業時代後期」としている。

 日本にボンブランスがもたらされた時期については、『日本捕鯨史話』によると、安政4年(1857)に函館に入港したアメリカ捕鯨船レピット号がボンブランスを持参しており、松前奉行小野玄仲がその使用法について問い質した内容が「捕鯨聞書」に掲載されているが、この時のボンブランスは④の捕鯨銃型のようである。また中浜万次郎(ジョン万次郎)は安政6年(1859)に小笠原で、スクーナーを母船にした捕鯨を行なっているが、万次郎の建議書や建白書を見る限りボンブランスについての記述はなく、母工船型洋式突取捕鯨だった可能性が高い。

 日本におけるボンブランスの使用について確認できる最初の記事は、明治6年(1873)に藤沢三渓が興した開洋社が、千葉県館山沖でアメリカ人を雇って行なったものだが、その際は鯨の捕獲は無く、どのような器具が用いられたのかも不明である。

  明治15年(1882)春には後述するように平戸瀬戸周辺や生月島において銃殺捕鯨の試験操業が行われているが、これが日本人独力で銃殺捕鯨を行ない鯨の捕獲に成功した初めての事例となる。さらに明治20年(1887)6月には関澤清明と醍醐組が伊豆大島で銃殺捕鯨を試行、明治27年(1994)にも母船型銃殺捕鯨を金華山沖で実施している。 しかし平戸以外では短期間の操業で終わっている。

 明治15年(1882)7月28日、鯨漁会社という会社が西洋式捕鯨の営業願いを東京府知事に提出している。同社の設立者の一人である橘成彦は旧平戸藩士だが、「真甲鯨銃殺論」には「(略)□ニ橘某氏米國ヨリ帰朝シ 頻リニ銃殺ノ法ヲ説キ 既ニ九州地方ニ於テ其試験ヲ行ヒシニ(略)」とあり、彼は渡米して銃殺捕鯨について見聞していた事が分かる。鯨漁会社が提出した「西洋式捕鯨営業ニ付願」では、銃殺法の利点が次のように説かれている。

「従来本邦ニ行ハルル捕鯨法ハ古来ノ習慣ヲ墨守シ、壱組ト称スルモノ漁舟凡五十余艘、漁夫五百余人、漁網其他ノ器具其数ヲ知ラズ、終年其漁夫ヲ養ッテ半年ノ用充テ莫大ノ費用ヲ消亡シ、一朝不漁ノ歳ニ逢ヘハ、失フ処ヲ得ル処ヲ償ハズ、頗ル危険ノ事業ニ御座候、然ル処洋式ハ是ニ反シ、四艘ノ漁舟ト数種ノ火器トヲ以テ、三十余名ノ人夫ヲ役シ、自在ニ捕獲シ得ルノ便法ニ有之候、其得失識者ヲ待タズシテ判別仕候ニ付、試業ノ経験都テ正算ノ通リニ相達シ、全ク以テ莫太ノ費用ヲ要セズ巨萬ノ利益ヲ得ルハ御国益ノ一端トモ相成ルベク確認仕(略)」

すなわち従来の網組が500名に達する人員と多くの機材を抱え、支出が莫大なのに比べて、洋式(銃殺捕鯨)は4艘の船と銃、30名の人員で足りるが、この支出の軽減こそが銃殺捕鯨の最大の利点だと強調している。但し「自在ニ捕獲シ得ルノ便法」とあるように、この時点では漁獲の方もまた相当な期待があったという点には注目しておく必要がある。鯨漁会社の当初の操業については次の記録が存在するが、5月の出漁記録とある一方、長崎県への書類の提出は明治16年2月4日となっている事から、前年の明治15年春に行われた試験操業についての記録である事が分かる。

「          参観

生月ノ出張前平戸河内ニ於テ出漁スル三十余日間ニ倒ス所長須鯨六頭、何レモ砲殺ノ際沈没シ激浪ノ為メ流失シ、尤モ内三頭ハ他人ノ拾ヒ得ル所トナレリ、然ルニ前ニ記載スル如ク先ツ銛ヲ突キ然シテ銃ヲ発スルノ順序ナルモ、業創始ニ当リ器具全ク備ハラス、其銛綱ニ乏シク不得止只銃ノミヲ放テ、為メニ数頭沈没流出セシムル事ニ至レリ」

 次に紹介する5月の生月島沖の操業前に、平戸瀬戸の南にある川内沖で30余日操業した(従って3~4月頃の操業と思われる)のが鯨漁会社の初操業となるが、この時には6頭を銃殺したものの全部未回収に終わっている。この原因には、試験段階で綱などの装備が整わなかった事もあるが、文中では最初に銛を打って鯨体を確保し、その後銃撃するという段取りが実行できなかった事が大きかったとしている。だが現実には、短い浮上期間中に銛を打つのは至難の技で、最初に銃撃を加える形が銃殺捕鯨の基本スタイルとなっていく。次に前述の川内操業の後(5月)に30日間行われた生月島北部での操業についての報告を紹介する。

「          捕鯨法

凡漁方タル生月鯨島ニ山見ヲ据ヘ、鯨泳ノ合図ニ依リポート(蘭語バッテイラト云)及傳当ヲ乗出シ鯨ニ接近シ、先銛ヲ突キ、同時ニ火矢ヲ装填セシ銃ヲ発シ、或ハポスカン銃ヲ発射シ之ヲ殺ス、出漁三十日(五月一日ヨリ同三十日マデ)倒ス所三頭、内長須鯨壱頭ハ沈没ノ後激浪ノ為ニ流出セリ其所在ヲ失セリ、全ク得ル所白長須壱頭坐頭壱頭タリ  」

  この操業では白長須鯨と座頭鯨を各1頭捕獲しており、これが日本におけるボンブランス(銃殺捕鯨)による最初の漁獲となる。なおこの資料の終わりに付けられた器械及び人員の報告を見ると、船団はボート2艘と傳当(テントウ)2艘からなり、1艘のボートには二十目銃1挺、ポスカン(銃)1挺、銛2本が搭載され、銃手1人、楫取1人、羽指(ハザシ)1人、加子5人が乗り組み、また傳当には1艘に5人が乗り組んでいる。このように洋船造りのボートをわざわざ建造して捕獲にあたらせる一方、鯨の追跡や捕獲した鯨の運搬には傳当を用いている。

  この操業でのボンブランスの装備は二十目の「火矢を装填せし」(捕鯨)銃とポスカン銃である。前者については、営業許可とともに提出した「捕鯨銃之儀ニ付願」の別紙に略図があってデータが記されている。それには米国製鯨銃とあり、口径8分(24㍉)銃身長1尺5寸(約45㌢)玉目弐十目(75㌘)とある。なお図には引金の後ろにレバーの様な部位が描かれており、『HARPOONS AND OTHER WHALECRAFT』に掲載された銃の中で形状の特徴やデータに該当するものとしては、1878年に特許が出されたアメリカのPierce&Eggersの元込捕鯨銃がある。但しこの捕鯨銃の現物は平戸地方では確認されておらず、この試験操業だけで使用され、その後売却ないし廃棄されたか、実際には現存するBrandの口径24㍉の前装捕鯨銃が用いられた可能性がある。

ポスカン銃についても略図があるが、長柄の先にボンブランスを収めた短筒と可動式のトグル銛を取り付け、短筒の脇には信管となっている細い金属棒が取り付けてある。こうした特徴から、『HARPOONS AND OTHER WHALECRAFT』に掲載された1865年に特許が出されているPierceのDarting Gunかその改良型と思われる。このように書類からは鯨漁会社が操業当初に用いた銃はPierceの製品を一括購入した可能性があるが、現物は確認されていないので断定はできない。ちなみに『大日本水産会報告』67号(明治20年)に掲載された、捕鯨に関する質問に対する関澤明清の回答には、銃殺捕鯨に関する器具一揃いは舶来品なら250ドルで横浜で扱っているとあり、外国からの入手ルートが確立されていた事が分かる。次に明治18年(1885)2月27日に平戸捕鯨会社が提出した書類「捕鯨の景況」を紹介する。

「  同将来ノ目的

  本社ニ於テ両三年来洋式ノ鯨銃ヲ試験スルニ 海面広ク遊鯨自在ナル所ニ於テハ 的中スルモ其効ナクシテ或ハ逸シ或ハ沈ム。故ニ 海岸ノ要地ニ扼シテ捕獲スル和法ノ掛網ニ加助シテ 凡ソ鯨魚ノ網代ニ臨ミ忌避セントスルモノ 或ハ網内ニ入テ後遁走セントスル場合ニ於テ 之ヲ狙撃シ初テ能ク其ノ功ヲ奏セリ。然ルニ 平戸御城下平戸瀬戸ノ如キハ 恰モ隍池ノ如キ海峡ニシテ 常ニ遊泳ノ鯨魚多キモ 古来□海中ニ於テ捕鯨セシモノアラザリシヲ 近年本社ニ於テ新網代ヲ発見シ従来ノ掛網ヲ用ヒ 又本年ハ更ニ敷網ノ法ヲ試ミ 之レニ加テ銃殺ヲ十分ニナサントス。但シ本社ニ於テ今日使用スルモノハ通常ノ火□銃ナルニ聞クカ如キハ西洋鯨船ニ用ル銃器種々精巧ノモノアリト、果シテ何等ノ器具ナルヤ、之ヲ平戸瀬戸内ニ於テ十分ニ其ノ利用ヲ試ン事希望ニ堪ヘス。抑捕鯨ノ漁場各地ニアリト雖モ容易ニ巨鯨ヲ銃殺シ得ヘキノ地ハ 恐クハ平戸瀬戸ヲ除テ多ク他ニ求ムヘカラサルヲ信ス。故ニ是非ニ此ノ目的ヲ達シ 広ク彼我ノ洪益ヲ増進セシメント欲ス。」

  この資料では、広い海面での銃殺法の操業は、鯨が逃げたり沈んだりする事があるので、網掛突取法と並行して行なうのが良いという意見が出されており、広い海面では銃殺法単独の操業は困難だと認識されていた事が分かる。その一方で、鯨が狭い海域を通過する平戸瀬戸は、銃殺法の操業に最適だと述べている。

 明治29年(1896)刊行の『(長崎県)漁業誌』の「長崎県の捕鯨と鮼漁」には、当時の平戸瀬戸の銃殺捕鯨組の規模について、次のように紹介している。

「総人員五十五人/内/支配人壱人、沖支配人壱人/銃手五人、羽指六人/加子四十一人、飯炊壱人/総船数五艘」。

『銃殺捕鯨日誌』には、明治23/24年漁期(1890~91)から明治40/41年漁期(1907~08)にかけての平戸瀬戸漁場の操業記録があるが、その間の捕獲頭数は最小2頭、最大12頭で、平均6.6頭である。なお当時の同組の操業については「巨鯨に乗って―壮快!鯨の鼻ッ柱を斬る 海の勇者に捕鯨の話を聞く―」というタイトルで、平戸瀬戸で銃殺捕鯨に従事した生月島壱部浦出身の浜崎勇蔵氏の聞き取りを紹介した新聞記事がある。

「明治もまだ若い十六年、私が十九で平戸島の鯨組上松(植松)組に組入りしたころには、捕鯨も二十匁の抱砲が唯一の武器で、こいつで鯨の急所に破裂丸をバーンと一発射ち込んで捕ったもんですタイ。

 そのころの鯨組はバッテラ三艘と小さな和船二艘が一組で、バッテラ一艘にははざし(船頭)と銃士と加子八名の都合十人乗りでした。銃士は鉄砲が射てる者というんで、おおかた平戸藩のお武家崩れで、えらう見識が高こう御座っしたよ。漁期は暮れの十二月から四月までで、私達の漁場は平戸の瀬戸で御座っしてな、ながす鯨が□□に乗って日本海方面から来遊してくる奴を射留めるとですタイ。平戸島の三ケ所に設けた見張所では、吹雪で曇った瀬戸に鯨の潮吹きを発見しますと、山見衆が狼火を打揚げて知らせますたい。そうするとこれを合図に、海岸で待機中のバッテラに乗り組み、雪の荒海をエッサホイエッサホイと八挺櫓も勇ましく、矢のように飛んで行ったもんですタイ。

 鯨に近づいた五艘の船が半円形を作って動悸の胸をぢっと押へて、ポッカリ浮び上る真黒い背中を待っているあの醍醐味は、死ぬまで忘れられませんよ。(中略)

 明治二九年 十一頭の鯨を捕った冬の事で御座っしたが、朝から粉雪がちらつきやがって午前十一時ごろでした。ながす鯨の十二尋(約四万斤)くらいある奴を、私の船の銃士が、もうそのころには使っていた四十匁砲で一発見舞ったところが、急所を逸ていたものと見えましてな。鯨はでかい頭を上下に振りながら、浮きつ沈みつ荒れ狂うてどうにもこうにも手のつけようがない。三番船のはざしをつとめていた私は、手練の六十匁銛を先銛に一本打ち込みましたら、鯨の奴はいよいよ物凄い怒声を発して狂ひ廻り、うかつに近づこうものなら尾鉢の一撃で船はめちゃめちゃにぶち壊されてしまいそうです。

 この時、越中ひとつの私は、鯨に致命傷を與えるため、右手に草刈鎌に似た刃渡り尺二、三寸の鋭利な鎌と、これは私がはじめて使い出した手鈎を左手に握って、折柄降りしきる吹雪の海へザンブと飛び込み、傷手に猛り狂ふ巨鯨に泳ぎつき、左手の手鈎を鯨の背中に打ち込んで、生娘の肌に油を塗ったようにぬらりぬらりと滑る背中を這い上って行きましたが、鯨め、私を海中に振り落し尾鉢の一撃で冥途へ跳ね飛ばそうといふ腹か、もがき廻るので、手鈎を頼りに背中に噛りついていた私も、腕の力が尽き果てて、とうとう海中に振り落とされました。

 駄目だ観念の眼を閉じて二秒、三秒、五秒、死の一撃を待っている間に、どうしたものか体がふわーつと海面に浮き上がりましたタイ。「しめた!」。よくよく見ると私の顔と鯨の顔と突き合わしているのです。私はいきなり手鈎を振り上げるや、あの間の延びた顔へ丁と打ち込み、右手の鎌で鯨の鼻ッ柱を一尺ほどゴリゴリと斬り開くと、サット波間にかい潜り逃げ出しました。二番船のはざしは私の上首尾を見て海に飛び込み、私が今斬ってきたばかりの鼻の切口から口にロープを通して船へ泳ぎ帰りましたが、この大成功に、五艘の船から思はず万歳が雪空へ跳ね返りましたよ。ほんに愉快で御座っした(略)」

 この記事から、捕鯨組は根拠地の名前を取ってウエマツ(植松)組と呼ばれていた事、船団はバッテラ(ボート)3艘、和船2艘という編成で、3カ所の山見からの狼煙を合図に出漁し、銃撃後に銛を突き、その後ハザシが鼻を切る過程があった事が分かる。なお森信義氏の「平戸植松捕鯨組」によると、3艘のバッテラは各々山見に詰めていたとされる。

  ボンブランスの装備については、浜崎氏が働き始めた当初は20匁の抱砲しかなかったが、明治29年頃には40匁の銃が使われるようになったとある。最初の20匁の抱砲とは明治15年の試験操業で使用されたPierce&Eggersの元込捕鯨銃ないしはBrandの口径24㍉の前装捕鯨銃だと思われる。なおポスカン銃の記述がないのは記述漏れの可能性もあるが、この道具が明治15年の試験操業では用いられたものの、成績不良のためその後は用いられなくなった事が考えられる。一方その後用いられるようになった40匁の銃は、生月島や平戸などに10挺程度の存在が確認されている口径28㍉の捕鯨銃だと思われる。この銃は前装式単発、全鉄製で銃床中央が空いていて、管打式の撃発装置、滑腔銃膣という特徴を持ち、生月島や平戸などに今も多数残る直径27㍉の火矢(ボンブランス)を使用したものと思われる。この銃は形式的にはアメリカのBrandの捕鯨銃(2.9㌢)と同じだが、これらのうち2挺には「国友卯十郎典吉」の銘がある。国友卯十郎は平戸藩の鉄砲鍛冶だが、「墨谷製」という銘がある銃もあり、彼ら鉄砲鍛冶がBrandの捕鯨銃を模倣して製作したと思われる。江戸時代には軍用の火縄銃は各藩が抱えた鉄砲鍛冶が作ったが、明治時代に入ると軍用銃は政府が設けた兵器廠などの工場で一括して製造されるようになる。日本の鉄砲史の中で捕鯨銃は、伝統的な鉄砲鍛冶が製作した最後の銃という位置づけになるとされる。

明治32年(1899)の『第二回水産博覧会審査報告』には、従来使用の銃砲は舶来品だが重量過大で使用上の不便や危険があったため、明治25~6年に銃床を5分短縮して筒先側の銃身を次第に細くなるようにして三百匁の重量を減らすように改良を施したとある。この改造銃については平戸で確認されている口径28㍉の銃の中に該当する特徴を有したものがあるが、1挺だけしか存在しない事から、この改造が一般化した訳ではないようだ。

現存するボンブランス(火矢)は、小さな円筒の中に炸裂火薬と信管を内蔵し、先端内部を落下する分銅形の部品が信管を叩打する事によって発火・爆発する精巧な小型爆弾である。ボンブランスの製作地についての記録は残っていないが、『第二回水産博覧会審査報告』によると、舶来のボンブランスは「羽根の最極部」すなわち後端から点火する形態だったが、副島清三郎が明治26年(1893)に改良品を製作したとある。島の館所蔵資料の中には火矢の内部機構を記した図面もあり、福岡(豊前地方)の扶桑捕鯨会社が小倉町の銃砲製造業者に依頼して捕鯨銃や小銃破裂箭などを製作したという記事(明治26年)もある事から、国内で生産されたと思われる。

 植松組は平戸瀬戸での操業以外に、西海その他の漁場で操業する捕鯨会社に機材や銃手の派遣を行なっている。また生月島でも植松組に参加する生月出身の銃殺捕鯨経験者によって銃殺捕鯨が何度か試みられている。明治34/35年漁期(1901~02)には植松組から生月御崎組に銃手4人が出張して操業しているが漁獲は無かった(『銃殺捕鯨日誌』)。壱部浦の尾崎常男氏からの聞き取りによると、戦前には森田新三郎氏が4~5年間銃殺捕鯨を行い、座頭鯨などを捕獲している。昭和初期には堺目の永田源蔵氏が2隻の船を使って鉄砲組を行なったとされるが、成果は不明である。昭和12年(1937)頃の春、壱部浦の前に鯨が出現した時には、五島三六氏らが明安丸という動力船に乗って銃殺法による捕獲を試みたが取り逃がしている(「島の館の捕鯨展示と生月島の銃殺捕鯨の記録」)。

呼子小川島では、明治30年(1897)から昭和10年頃まで銃殺捕鯨が行われているが、銃士や機材は概ね平戸から派遣されていて、明治41年(1908)以降はノルウェー式砲殺捕鯨の時期の前後に補助的な操業として行われている(「小川島捕鯨株式会社沿革」)。

五島列島では、北部の宇久島で明治25/26年(1892~93)に宇久島組に植松組から6人が出張して長須鯨2頭を捕獲、明治37/38年(1904~05)には4人が出張して児鯨1頭を捕獲、明治38年(1905)11~12月には2人が出張して操業するが捕獲0で終わっている。南部の椛島では明治37年(1904)10~11月の操業に5人が出張して2頭を捕獲、明治38年(1905)10~11月にも5人が出張して長須鯨1頭を捕獲している(『銃殺捕鯨日誌』)。

五島灘では、平島で明治27年春から銃殺捕鯨組が操業していて、明治27年(1894)3~5月の操業には植松組から6人が出張して長須鯨1頭を捕獲、明治28/29年漁期(1895~96)の操業には6人が出張して長須鯨2頭を捕獲、明治29年(1896)春には5人が出張して長須鯨4頭を捕獲、明治30年(1897)春には4人が出張して1頭捕獲(シモレ)、明治32年(1899)春には6人が出張して3頭、明治33年(1900)春には5人が出張して1頭捕獲、明治42/43年漁期(1909~10)には銃手4人が出張して児鯨1頭を捕獲している(『銃殺捕鯨日誌』)。

筑前大島では「捕鯨商社創立ニ関ル願書綴」によると明治17年(1884)に設立された大島捕鯨商社が銃殺捕鯨を実施している。同資料の日誌によると同社は明治17/18年漁期(1884~85)に操業を行なっているが、鯨の発見9回で、うち追跡に至っているのは1回だが捕獲には至っていない。

有明海(肥後内海)では肥後組が明治26年(1893)1月から操業を行なっているが、植松組からは4人が出張して長須鯨4頭を捕獲、明治27年(1894)1~3月の操業には4人が出張して長須鯨1頭、児(克)鯨1頭を捕獲している(『銃殺捕鯨日誌』)。なお『熊本新聞』明治27年1月4日号には、宇土郡赤瀬沖で長須鯨一頭を銃殺捕獲した記事があるが、捕獲したのは赤瀬組だとある(安田宗生氏教示による)、

 大分県国東半島の臼野浦(豊後高田市真玉町臼野)では、明治31年(1898)に操業が行われ4人が出張しているが、捕獲は無い(『銃殺捕鯨日誌』)。

 愛媛県三津浜(松山市)では明治43年(1910)4~5月に試験操業が行われ、植松組から銃手2人、波座士2人、友押2人が派遣されている。また明治44年(1911)春にも愛媛県での操業が行われている(『銃殺捕鯨日誌』)。

 また朝鮮では、サラントという所で操業する三重県出身の藤村文平の鯨組に明治35年(1902)11~12月に植松組から5人の銃手が出張しているが捕獲は無く、釜山港の牧之島の捕鯨組では明治39/40年漁期(1906~07)に銃手6人が出張して6頭を捕獲している(『銃殺捕鯨日誌』)。

 このように明治中~後期には国内から朝鮮半島にかけての各地に植松組から銃手が派遣される形で銃殺捕鯨が行われているが、明治29年(1896)刊行の『漁業誌』に所収された「長崎県の捕鯨と鮼漁」には、明確に銃殺捕鯨の欠点が指摘されている。

「北松浦郡平戸ノ瀬戸字植松ニ、洋式ヲ折衷シタル一種ノ銃殺捕鯨法アリ。大ニ従来網捕ノ漁法ヨリモ諸経費ヲ減殺シ、至極簡易ノ方法トハ認ムレドモ、此ノ方法タルヤ其費用ヲ節減スル丈ケ漁獲モ亦寡少ニシテ、網捕ノ漁獲数ニ及バサルコト遠シ。明治十五年以降此ノ方法ニ依リ漁獲シタル鯨数、毎漁期僅カニ三頭乃至五六頭ニシテ、明治二十三年春期ニ六頭ヲ獲殺シタルノミ。因テ平戸ニテ此ノ植松銃殺捕鯨場ヲ呼テ、三頭網代ト云。其ノ漁法左ノ如シ。(後略)」

 これによると銃殺捕鯨は経費が少なく簡易な方法だが、その分漁獲も少なく旧来の網組のそれには及ばない事が明らかだとしており、地元では平戸瀬戸の漁場は「三頭網代」と揶揄される程だったとしている。この記述は、銃殺捕鯨は伝統的な鯨肉の需要に支えられて操業にも有利だった平戸瀬戸では継続的に操業できる可能性はあったが、他の漁場にも普及してメジャーな捕鯨法として定着する可能性は無いことを明確に示している。

『年輪』にある川渕徳次郎氏の話によると、皿川(植松)を根拠地とする銃殺捕鯨会社は昭和2年(1927)まで存在しており、白浜の篠崎惣四郎が代表をしていて、捕獲した鯨は篠崎家が一手に買い取り、解体した鯨肉を小売商人に卸していたが、その肉を白浜の主婦達が天秤棒に担いで松浦、佐世保、北松一円を売り歩いたという。

終戦直後にも銃殺捕鯨は一時的に行われている。以下、生月島壱部浦の吉田金吉氏からの聞き取りの内容でその操業の様子を紹介していくが、吉田氏はこの銃殺捕鯨組で昭和20年11月から機関場兼飯炊きとして働いている。生月島からは吉田氏の他にも松本吉蔵氏、浜崎勇蔵氏(吉蔵氏の兄)と息子の兵吉氏、村川只吉氏、大崎五太夫氏など10人ほどが参加していたが、彼らは概ね40~50代で、冬は銃殺捕鯨に従事して夏場は海士稼ぎをしていた。同組の操業は昭和21年と22年の2年間(2漁期)行われているが、21年の経営者は平戸で女学校の校長をしていた大石氏、22年の経営者は吉住氏で、漁期は正月から翌春の旧暦4月一杯頃(新暦5月)までだった。

  鯨組の納屋は皿川にあったが、話者が行った頃までは、以前の銃殺組のボートや鯨を引き上げる所が残っていた。また中の崎の波止の根元に宿舎があった。船は動力船が2隻で「一番船」「二番船」と呼ばれ、それぞれに5~6人が乗り込んだが、船も生月から持っていった。吉田氏が乗り込んだ船は5馬力の焼玉機関が付いた2~3トンの船だった。

  鯨を見張る山見は、平戸島側の大崎鼻と、田平の唐船(ミズシリ)の2カ所に置かれたが、北風が強く大崎鼻に渡れないときは代わりに万寿崎(南竜崎)に行って見張った。大崎鼻は上り鯨(瀬戸を北上する鯨)を、唐船は下り鯨(南下する鯨)を見張る山見だった。建物は藁で作られ、前には藁で下から吹き上げてくる風を除ける垣を作り、その後ろに畳を2畳ほど直列に敷き、5人が胡座をかいて見張った。後ろにも藁壁があり、屋根も藁葺きで、毎年建て替えた。2艘の船の乗組員がそれぞれ1ヶ所ずつの山見に詰め、1日置きに詰める山見を交替した。暗いうちに船で宿舎から山見小屋まで行き、配置につくと一日中海を見て過ごし、昼飯もご飯と味噌汁程度だったが、監視をしながら食べた。炊事場は山見から離れた所に作り、煙が邪魔にならないようにしていた。終わるのは暗くなってからだった。

 鯨を確認すると、山見では、外に用意してあった松葉に火をつけた。松葉は下に枯れた燃えやすいのを敷き、上に濡れたのを乗せて煙が出やすいようにしていた。乗組員は船に乗って沖に出た。一方、受けた山見の乗組員も直ちに船を出したが、アトバンという居残りが煙の合図を「了解した」という確認のため、山見小屋の脇の柱にシルシ(印旗)を上げた。なおアトバンだった松本吉蔵氏は、朝早く先に万寿崎の山見に出かけ、船が来るまで早朝の見張りをしていたのを覚えている。

  吉田氏は、船で鯨を追うていく時は上がってしまった(興奮した)という。鯨取りというのは一本とれば(良い)という賭けのようなところがある。最初に鉄砲(捕鯨銃)で鯨を撃って致命傷を与える。鉄砲撃ち(砲手ともいう。銃手の事)には平戸の士族上がりの人がよくなっていたが、以前、植松組で鉄砲撃ちをしていて、皿川の納屋場の上に住んでいた森氏も旧士族で「森様」と呼ばれていた。また田平の鳥居氏や生月の富山伊予吉氏も鉄砲撃ちをしていた。富山氏は見習いだったので、浜崎兵吉氏が鉄砲の指南をしていた。

  鉄砲(捕鯨銃)は総鉄製と銃床が木製のものの2種類が使われたが、後者が割合軽かった。銃身に火薬(発射薬)を詰め、矢(ボンブランス)を入れたが、鯨の種類によって銃身に詰める火薬の量を加減した。鯨は種類によって皮の厚さが違い、座頭鯨は厚かったが、長須鯨は薄く、ミンク鯨になるとごく薄かった。矢は内部に入って腹中で爆発させるのが良いとされた。矢はどこで製作していたかは分からない。船には重い銃と軽い銃を1挺ずつ持っていった。組の中では鳥居氏が2挺(共に重い銃)、浜崎勇蔵氏が2挺(重い銃と軽い銃)、富山伊予吉氏が1挺(重い銃)を持っていて、操業の時持ち寄った。

  漁場の平戸瀬戸は上り鯨が多く、下り鯨より上り鯨の方が取りよかった。上り鯨は、下げ潮の時に「潮上り」で潮に抗いながら泳ぐので、瀬戸の入口で動きが止まったところが狙い目だったからで、特に皿川の前には浅い瀬のような所があり、そこが良い漁場だった。

  鯨を銃撃するのは浮上している時だが、浮上している間でも銃撃できるタイミングがあり、それより早くても遅くても当たらない。射程距離は50㍍程だった。船の片側のみに鉄砲撃ちを配置し、外れると再装填せず、もう一挺の銃を構える場合もあったし、両舷にそれぞれ鉄砲撃ちを配置する場合もあった。船の両舷には鉄砲を撃つための構造物が作ってあった。立ったままの姿勢で腿をあてられるように板が取り付けてあり、反動でひっくり返らないようにしていたため、撃つ時に助手がついて支える必要はなかった。銃は下に置いておき、鯨が近くなると上向きに構え、撃つ瞬間に下げて狙って撃った。また一人がオモテにいて、鯨の方向などを指示していた。

  実際に鯨を追跡して発砲したのは最初の漁期に1度あった。昭和21年の2月頃、唐船の山見が鯨の接近を狼煙で知らせてきて、大崎鼻の山見にいた吉田氏達は急いで船に降りて機関を動かし始めたが、当時の焼玉機関は起動までに時間がかかり、10分以上経って沖に出た時には鯨は前を通り過ぎていた。鯨は下りの長須の子連れで、親鯨は12~3尋(約22~23㍍)の長さがあった。田平の池向の沖で一度撃ったが当たらず、それで警戒した鯨はそのまま泳ぐ速度を増し、枯木島(佐世保市黒島の沖の無人島)沖まで追ったが叶わず引き返した。

  翌22年にも、黒子島の沖で浜崎兵吉氏が鰯鯨に発砲した事があったが、その時は矢が逸れて黒子島に当たって爆発した。引き潮の時、黒子島の沖では潮が渦巻く事があり、上り鯨はそのような時にはそこで暫く待つので、そこを撃つのが狙い目だったと聞いた。反対に満ち潮だと、上り鯨は潮からどんどん追われて早く泳ぎ去るのでここの漁では向かなかった。この年は、鰯鯨は見かけたが座頭鯨や長須鯨は見かけなかった。

  銃撃後の鯨はヨロズで突いて仕留める事になっていた。ヨロズは柄も含め総鉄製の銛で、尻に円環がついておりロープを付けていた。先端は菱形の刃が可動するようになっていて、突き刺して引くと横に広がって抜けなくなるようになっていた。また長い柄の部分も曲がるようになっていて、抜け難かった。

  給料は基本給と歩合になっていた。植松組の頃には、鯨が取れたら鯨肉が配給されたという。1頭分の配給肉を塩漬けにしておくと、家で1年食べるくらいの量だった。配給肉を近所に配ったりすることはあったが売ることはなかった。吉田氏が5~6歳の時に植松の納屋場につれていってもらい解体を見学したのを覚えている。その時も肉を貰って帰ったようだ。赤身の塩漬けは焼いて食べた。なお昭和21年の操業の際も、大石社長が従業員に食べさせるために塩蔵鯨肉を持ってきた。

  生月島から参加している者は皆ヨイヤサ(鯨唄)が歌えた。ヨイヤサは昭和21年の操業の時も「納屋入り」(操業始め)、「上がり」(「かえり」とも言う、操業の終わり)の他、「中籠り」といい、不漁に際して大漁を祈願するために、時化の時を利用して亀岡神社に参拝する際にも唄われた。正月には休みは無く、鯨唄をやった記憶はない。

  昭和22年に捕鯨を終わる時には、平戸鉄工所の脇にあった吉住氏の倉庫に道具を納めた。翌年も吉住氏は捕鯨砲を積んだ小型の動力船を仕立てて漁を行ない、吉田氏の祖父達が参加した。一方吉田氏の方は、軍に徴用されていた船が戻ってきて再開されつつあった生月島の旋網漁業の方に転職している。

 平戸地方の捕鯨業がノルウェー式砲殺法に移行する事はなかったが、呼子を拠点とする小川島捕鯨株式会社が他社と共同経営の形で操業させたノルウェー式砲殺捕鯨船が昭和初期と昭和12年(1937)頃の二回、平戸海域に出漁してきている。生月島の古老が「大東丸」が来ていたと記憶しているのは昭和初期の事と思われるが、生月島の名残崎、鞍馬と大島的山の笠の岳に山見を置き、裸眼と遠眼鏡で鯨を探したとされる。大東丸は朝・呼子から来て、壱部浦で鞍馬に行く山見の人を乗せていった。捕鯨船は鞍馬の山見の下にアンカ-を入れて待機していて、鯨を発見すると上の鞍馬山見からおらんで(叫んで)知らせた。西沖や鯨島沖で鯨を捕り、捕れたらそのまま呼子に持っていったので、陸上では捕れたかどうかも分からなかったという。

唐津市七ツ釜の坂本庄治氏の話では、昭和初期の出漁は試験操業で、呼子から山見として平田富太郎(名護屋出身)、坂本豊三郎(屋形石出身)、長江留次郎(名護屋出身)の3人が行った。昭和12年の時には話者の坂本氏1人だけが行き、残りは生月島の方で雇った。山見は前述の3ヶ所に置かれいずれも藁葺きの小屋だった。坂本氏は的山の山見で生月出身の石橋豊蔵氏と一緒に仕事をした。山見の大将は生月島出身の大崎五太夫氏で、御崎(鞍馬)にいた。昭和12年の時には捕鯨船は、夜は的山港に停泊していて乗組員も船で寝、朝に鞍馬の山見の下に待機して鯨の出現を待った。的山にはオナゴヤ(女郎屋)があったので、乗組員は鯨で儲けた金が少しも残らなかったという。

  昭和12年3月頃のある朝、坂本氏が的山の山見から見ていると、大きな座頭鯨の夫婦連れが壱岐の島のシモ側(南側)を泳いでいるのが見えた。その時には捕鯨船が居なかったので直ちに的山の郵便局まで駆け下り、8時半頃に呼子に電報を打った。坂本氏は山見に戻り鯨を監視していたが、2頭は行ったり来たりしながら潮を吹いたり尾を上げたりして遊んでいるようだった。午後2時半頃になって漸く「曙」と「漣」の2隻の砲殺捕鯨船が来た。「漣」は大島の北を「曙」は南を回り込んできたので、坂本氏は山見の下の海岸(島の北岸)からボートで「漣」に乗り移って鯨を追跡し、砲撃したが砲手が素人で撃ち損じた。それで用心深くなった鯨は逃げてしまい、日没に追跡は中止された。乗組員も「よか鯨だった」と話すほど立派な50尺程もある座頭鯨だったという。

2021/11/30




長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

〒859-5706 長崎県平戸市生月町南免4289番地1
TEL:0950-53-3000 FAX:0950-53-3032