平戸史再考No20 平戸と外海
平戸と外海
平戸市域は天文19年(1550)にキリシタンの布教が始まり、永禄元年と8年(1558、65)の一斉改宗で、平戸島西岸と度島、生月島がキリシタン信仰地域となった。この地域で成立したキリシタン信仰が、慶長4年(1599)以降の禁教時代にも、仏教や神道を並存させる構造の中で密かに継承され、こんにちも生月・平戸系かくれキリシタン信仰として残る。しかしそれが平戸市域のキリシタンの歴史の全てではなく、もう一つの大きな流れがある。それが外海系かくれキリシタン・カトリック信者の歴史である。
外海地方は、現在は長崎市に属する、西彼杵半島西岸南部の旧外海町から長崎市北西部にかけての地域である。半島中央を南北に延びる背梁山地から何本もの山地が西に延び、末端部は標高100㍍程の丘陵が海岸まで急斜面をなしている。山地の間には何本もの川が流れ、谷底や河口に僅かな平地を作っている。
西彼杵半島は、長崎県下では平戸の次にキリシタン信仰が伝播した地域である。永禄5年(1562)には北東部の針尾瀬戸に面した横瀬浦がボルトガル船に開かれ、布教が始まる。横瀬浦は針尾瀬戸に面した入江にあり、平戸から九州西岸を南下する航路と大村湾の舟運の結節点にあたる、大村氏の外港の役割を果たす事ができる港だった。開港前年には平戸でポルトガル商人と日本人の間で商売上の争いから殺傷事件(宮の前事件)が起きており、キリシタンに対して距離を取る平戸松浦氏の態度を嫌ったイエズス会の判断も寄港地の変更に影響している。横瀬浦を領する大村純忠はキリシタンに好意的で、永禄6年(1563)には自らも入信している。しかしこの年、針尾瀬戸の交易権を脅かされた対岸の針尾氏などの攻撃によって横瀬浦は灰燼に帰す。その後いったん寄港地は平戸に戻るが、永禄8年(1565)には西彼杵半島西岸(外海地方南部)の福田浦に移る。その頃から外海地方の布教が始まり、永禄11年(1568)に福田浦に入港したポルトガル船で来航したヴァラレッジオ神父は、教会堂がある同地で子供達の聖歌を含む盛大な出迎えを受けている〔1568ヴァラレッジオ〕。元亀2年(1571)には長崎にポルトガル船が入港するが、その頃には長崎湾東岸の戸町や、外海南部の手熊や式見で住民全員がキリシタンとなり、三重、神浦、雪の浦でも領主一族を含めた住民が入信している〔1571フィゲイレド〕。なお天正8年(1580)にはポルトガル船の主要寄港地となった長崎の内町6町と茂木が大村氏からイエズス会に寄進され、貿易とともにキリシタン信仰の中心地となっていく。
外海地方を領した大村氏は、元亀3年(1572)に後藤氏(武雄)松浦氏(平戸)西郷氏(諫早)の連合軍から攻撃され、配下からも多くの離反者を出し、本城の三城に僅かの手勢で籠城する危機を迎えるが、からくも撃退に成功する。その後、領内の統一を図るために天正2年(1574)から一斉改宗に着手し寺社を破壊している〔1575カブラル〕〔1577ヴァス〕。天正7年(1579)当時、大村領には大村、郡、長崎に司祭館と40か所以上の教会が存在した〔1579年報〕。天正15年(1587)の伴天連追放令後、長崎は秀吉の直轄領となるが、秀吉の家臣の施薬院は有馬氏・大村氏に対し、領内から伴天連達を追放するよう叱責を加えている〔1591.92年報〕。
江戸時代の外海地方は殆どが大村藩領だったが、一部に佐賀藩の支藩・深堀の領地が点在しており、このように領地が錯綜する状況は禁教後のキリシタン信仰の継続に有利に働いたと考えられる。慶長10年(1605)には大村喜前がキリシタンを棄てて日蓮宗に改宗し、宣教師を監禁する。大村藩はその後も禁教令を再三布告し、領内のキリシタンの存在を口止めし、聖像の公然所持や伴天連招聘を禁じているが、この時期にも司祭は外海地方で30カ所を訪ねて3,356人の告白を聞いている〔1613年報〕。
大村氏は以前、当主の純忠がキリシタンに入信して領内の一斉改宗を行った(キリシタン大名の)経歴がある事で、将軍家から厳しい目を向けられていた事が、『イエズス会史』抜粋(1617.18年補遺)の次の記述から窺える。
「その時から1ヵ月もたたないうちに、若い大村(純頼)殿は江戸の政庁から自国に帰って来た。その近辺で福音者の司祭を一生懸命探して手に落ちる人たちや、彼らを匿っていた人たちを捕まえ、そして(その処分は)帝国の奉行たちの思いのままにできるという将軍から通告されたとても厳しい規定を携えて来た。
この卑劣な任務に他のいかなる人でもなく彼が命じられて、もしそのようなことをおろそかにすれば刑罰として領国を失うことになると申し渡された。しかしもうすでに3年前に内府様は―後にしたように―日本国外へ永遠に追放に処するために司祭を皆一集合地に集めるという責務の大部分を彼に任していたにもかかわらず、その分別あるというより激しい熱意を残している(人)の少なくなかったことが後に示された。
そういうわけで大村(純頼)殿は次のように思った。政庁の現在の命令を遂行し、国の喪失を免れるためには(信徒を)見つけねばならないが、見つけると(彼らがまだ)いることが明らかになるので、賢明にするならば、自分の過去の怠慢と思われることを裏づけないために大勢見つけてはいけない、と。」
大村藩は、キリシタンを擁護しているような疑念を幕府に持たれて改易にならないように、キリシタンに厳格な態度で臨む必要があったのである。
慶長19年(1614)に幕府の禁教令が出されると、キリシタン布教の中心地だった長崎では宣教師や主立った信者が海外に追放され、教会堂が閉鎖・破壊されている。『日本キリシタン教会史』には次のように記されている。
「そしてパードレたちがまだ福田に滞在していた11月1日、佐兵衛は長崎の市の乙名を召集させて、長崎の教会をことごとく(もはや日本全国に他の教会は残っていなかった)破壊せよとの内府様の命令をそのまま申し渡した。(中略)そこで、ただちに肥前の殿に対し、教会を破壊すべき兵士の派遣を伝えさせ、また既に長崎滞在中の平戸と大村の殿にも同趣旨の命令を伝えた。ところで、異教徒たちは欣喜雀躍し歓声を挙げて集まり、11月3日に教会を破壊し始めた。真っ先に破壊されたのは豪華を極めたイエズス会の教会で、それには平戸の兵士が当った。大村の兵士は5日にサンタ・マリア教会、9日にサン・ユアン教会、他の兵士はサン・アグスティン教会を破壊し始めた。11日にはサン・アントニオ教会、12日にはサン・ペドロとサント・ドミンゴ教会を破壊し始めた。このようにして14日には以上の教会がことごとく破却された。翌15日、ただちにサンティアゴ教会と、まだ一度もミサを立てたことのない豪華を極めた聖フランシスコ教会から破壊し始めた。この聖フランシスコ教会の破壊に際し、肥前の異教徒が多数、事故死したが、他の教会でも何人かが事故で落命した。この光景は確かに最後の審判のごとく、破壊と騒音に明け暮れるばかりであった。板を取り外し瓦を投げ壁を壊す音ばかりが聞え、それがキリシタンの心中を突き刺したので、当時、彼らは断腸の思いに悄然としていた。」
大村藩内では、元和8年(1622)に大村の放虎原で神父ら11人が処刑され、西彼杵半島東岸の小干浦から出土した遺骨箱からは、四五郎衛門トマスとその子の与助ドミンゴが1624年7月17日に棄教を拒んで斬首された事を刻んだ銅板が発見されている。 しかしこうした状況下でも長崎を拠点とする諸修道会の活動は継続している。潜伏しながら各地を回り宣教を続ける宣教師達の聖務の困難さについて「1615、16年度日本年報」は次のように記している。
「現在の状況では、主の栄光を讃えるべき時期ではないように思える。私は、現在私が滞在している背の低い藁葺きの湿気の多い小屋の、明りを奪われた暗闇の中で、小さな明り取りから差し込む光を頼りに教会法の定める時刻に祈りを捧げています。私はこの小屋に昼も夜も潜んでいるため、あふれるほどの湿気のせいで(起こる)腰や足の痛みにより、何日もの間、(満足に)休むこともできないほどでした。私の匿い主は(私という)秘密について非常に用心深いため、全員がキリシタンだというわけではない使用人や、まだ幼い子供たちを信用するわけにもいかず、とても遅い時間になってから同宿の手を通じて私のもとに昼食を届けさせていますが、それも、少量の米と副食としては塩漬けの鰯だけというわずかなものです。私はしばしば「暗闇の朝課」を変更せざるを得ません。というのは、(告白を)必要としている何人かの人々の(もとに)告白を聴きに行くために、深夜になって夜中の人々が深い眠りに落ちるまで待たなければならず、そのような場合には約束の場所に到着するのが明け方になってしまうからです。にもかかわらず、告白を聴くと、このような困難の中にいるのに、私は自分の心が、何の疑いももたれることなく自由に日本中を歩き廻ることができた頃よりも、ずっと伸々していると感じます。同じような慰めを身体の中にも感じます。それは(私にとって)ほとんど取るに足らない不快さや苦痛よりは、古くからの嫌気から解放されたと感じられるからです。」
活動する宣教師の中には、アウグスチノ会の金鍔次兵衛神父のように、外海地方など大村領内を中心に神出鬼没の活動をする者もいた。また『切支丹の復活』には、外海地方のかくれキリシタン信者に伝承されていたとされる宣教師ジュワンと伝道師バスチャンの伝説が紹介されている。
「ジワンはもと黒船のカピタンで伝道に奔走し、バスチャンはその弟子となって2人で外海地方の宣教に努めた。神浦村の落人の水という所でジワンは国に戻るといって姿を消し、バスチャンだけで継続したが、どうしても日繰りの取り方で分からない所があり、念じると再びジワンが戻ってきて、「お前も分からない男だね」と言いつつ日繰りの仕方を教え、終わると歩いて波間に消え去った。ジワンはその教えに従って暦を作り、各地を巡回して道を伝え、途中、樫山の赤岳の椿の木に十字架の印を残したりしたが、とうとう谷間の隠れ家を見つかって処刑されている。」
この伝説で重要なのは、外海・浦上系かくれキリシタン信仰の中心的要素となる日繰帳の信仰内容を宣教師が伝えたとする点で、同信仰の基本形態が禁教初期に巡回する宣教師によって整えられたキリシタン信仰である事を示している。なおこの伝説に登場するジワンやバスチャンを実在する特定の宣教師と結びつけて捉える向きもあるが、おそらくは潜伏しながら宣教に従事した多くの宣教師達の姿を反映したものだろう。
宣教を受ける信者のほうでは、「長崎近郊の村民たちは、各々組仲間に分かれていて、宗旨を守るのに際しても同様な堅忍不抜を通した」〔1621年報〕と記されているように、信仰の組を組織して信仰の継続を図っている。組の信仰の中心が日繰帳(信仰暦)に基づく行事や禁忌の遵守にあった事は、外海・浦上系かくれ信仰の形態や信仰具から想像できるが、キリシタン時代の信仰暦を持つ組については、「1591・92年度・日本年報」の京都の組について次のような記述がある。
「彼らは一種の組を組織し、日曜日ごとにある1軒の家に集合し、長時間にわたって霊魂のためになる行事を催して過すのである。そのためには彼らは何か霊的な書物を読み、朗読を聞いてそれについて語らい、皆でいっしょに短い祈りを唱え、キリシタンや司祭たちが自由に振舞えるようにとデウスに祈願した。これらの家においては、1年の第1の祝日(復活祭、降誕祭)にはそれを祝い、四旬節中の毎金曜には鞭打ち(の苦行)を行なった。また(キリストが)御血を流された日、特に聖週間中には彼らは鞭打ち(の苦行)を行なった。なぜなら彼らは、(教会)暦をよく記憶しているからで、その(教会)暦を日本語で印刷した手本はすでに我らが送付したとおりである。都だけでもこうした組が7つか8つできており、婦人たちは婦人たちで、男子とは別に、これまた同じ仕方で互いに(組を組織する)方法を講じている。」
キリシタン信仰初期には信仰暦(教会暦)は基本的に宣教師が持つもので、信者は宣教師に確認して祝日などを確認していたと思われる。信仰暦が信者に配布されるようになったきっかけの一つは、1580年代以降のヴァリニャーノの改革の中で、信者が自主的に運営する信心会の組が組織されるようになった事だと思われる。先の京都の事例は、秀吉の伴天連追放令(1587)によって畿内方面の宣教師が退去した状況下の事だが、一般信者が組に拠って信仰を続けていくためには、信者による信仰暦の保持が必要だったのである。徳川の全国禁教令(1614)によって教会が破却され宣教師が不在となる状況下で、信者達は組に拠って自主的に信仰を継承していくが、その中で長崎周辺地域の信者達は、特に信仰暦を信仰の中心に据え、人が集まる目立つ行事を最小限とし、オラショも声に出さない形で唱える、禁教対応の信仰形態を整えていったのである。外海地方に伝わる日繰帳の中には「御出来千六百三十四年」と記されているものがあり、1634年の教会暦に拠っている事が分かるが、外海のキリシタン信者達は少なくとも寛永11年(1634)頃までは宣教師との連絡を保っていた事が想像される。なお日繰帳の暦には閏月があるので基本的には太陰太陽暦に拠っているが、それに太陽暦による諸聖人の祝祭日を該当する日に記載する形を採用している。宣教師から教会暦を入手できなくなると、帳方が1634年の信仰暦の祝祭日を、春分を基準日としてその年の暦に当てはめて祭日を割り出すようになる。そして組の信者は毎週日曜日に帳方宅に寄って、その週の祝祭日と禁忌を確認するようになった。
外海系かくれ信仰の大きな特徴の一つは、信仰が地域に面的に展開しない事である。生月島のかくれ信仰では、地域の中に聖地や祭場があり、農耕や牛の関係などで屋外で行う行事も多い。しかし外海系かくれ信仰では屋外の聖地は少なく、屋外で行う行事も殆ど無い。こうした状況は世界遺産で外海の集落空間の価値付けをする際に担当者を悩ませる事にもなったが、それが外海系かくれ信仰の元であるキリシタン信仰の形態が禁教下に成立した事を示す特徴であり、信仰の露見を防ぐために屋外の行事を無くしたためだと考えられる。しかし信仰が地域に展開しない=地域に信仰が固定化されない事によって、外海系かくれ信仰は移住によって居住地が変わっても、支障なく信仰を継続できたのである。
また外海地方のかくれ信仰の組の多くは、「帳方」という、御帳とよぶ暦を繰り、門徒に悪か日や障りのある日を報せるトップの役職と、「水方」という洗礼を授ける役、「触役」という行事の準備や日取りを報せて回る役が各一人ずついる組織形態を取っていて、これは江戸時代後期に外海地方の信者が移住した五島列島の組織でも基本的に同じである。組親が帳方という日繰帳にちなんだ名前で呼ばれるのも、この組の信仰の中心が信仰暦にある事を示しているが、洗礼を行う役である水方が組親の下に置かれているのもこの組の特徴である。例えば生月島の山田集落では、水方に相当する御爺役が上で、組親(外海の帳方)に相当する親父役はその下に置かれている。両者の違いはどこで生じたかというと、山田では、最初に慈悲の組という集落全体の組が成立し、慈悲役という洗礼などを行う役が置かれたが、その後信心会(山田では「垣内」と呼んだ)という組が新たに設立され、その際、慈悲の組の下部組織に位置づけられたため、御爺役-親父役という形になったと思われる。それに対して外海の組は、信仰暦を持つ信心会が新たに作られたか、もともとあった慈悲の組を解体して結成したため、帳方-水方の形になったと思われる。なお役職者を最小限とした外海の組織のあり方も、後世、移住地で組織を再編する際には有利に働いた。
外海系かくれ信仰の信仰具の保持の仕方にも、生月・平戸系かくれ信仰と異なる特徴がある。生月では信心会系の組である津元・垣内で聖母や聖人の聖画(お掛け絵)を祀る形だったのに対し、外海の組ではメダイや立像などを、組の各家がそれぞれ保持する形だった。信者が保持する信仰具はタカラモノと呼ばれ、黒崎の組では3月の「お告げの日(春のまんなか)」、4月の「悲しみ上がり」、12月の「御誕生(ナタラ)」には、信者が帳方の家にタカラモノを持ち寄って祀り、皆でオラショを唱えている。
こうした信仰具の所有の仕方については、1591年に教皇グレゴリウス14世が発した大赦の布告文で、祝別した聖具を所有し祈る事で贖宥が与えられるとされた事が影響していると考えられる。この大赦の内容は「ルソン(ドソン)のオラショ」として外海地方に冊子の形で継承されているが、この布告の内容を受け取った信者が「聖なるもの」に強い執着を持ち、それを保持していく動機付けになったと推測される。
外海系かくれ信仰ではオラショを、声を出さずに唱える一方で、男女ともオラショを覚えて唱えている。これは男性の中でも特定の人だけがオラショを唱える生月・平戸系かくれ信仰とは異なる特徴だが、布教時期が早かった(16世紀中頃)平戸地方では家単位で信仰組織が作られたため、男性の戸主が専ら信仰行事に関与する形になったと考えられる。一方、外海系かくれ信仰は17世紀前期の成熟したキリシタン信仰が基盤となっているため、男女ともに唱える形が継承されたと思われる。
なお外海地方にある佐賀深堀領の出津・黒崎では、キリシタン信仰当時の伸展葬の寝棺を用いた埋葬が、禁教時代以降のかくれ信仰でも継続された事が注目される。埋葬時の墓改めが厳格に行われた大村藩や天領の浦上と異なり、深堀領では埋葬に僧侶が立ち会わなかったからだと思われる。
大村藩内の弾圧は島原・天草一揆(1637~38)後も継続し、明暦3年(1657)に起きた「郡崩れ」では、大村近郊の郡村を中心に608人が逮捕され、各地に配流されて多くが処刑されているが、これによって大村湾東岸の地方(じがた)地方の信仰組織は壊滅する。またこうしたキリシタン信者の検挙と並行して、大村藩内では藩主・喜前が棄教した慶長10年(1605)から寛文年間に至るまでの間に、寺院とともに151社の神社の再興・建立が行われ(『キリシタン伝来地の神社と信仰』)、制法でも「鎮守・産神掃除奇麗して注連を引、祭の日産業を止て社頭に群集し、祭礼厚く可執行」と定めて、氏神の維持や祭礼の執行をキリシタン禁制との関連で求めている(『見聞集』)。また『見聞集』42によると、万治元年(1658)からは大村領内を二手に分けて絵踏が始まっており、『見聞集』41に所収された万治3年(1660)の巡回報告には、浦上から外海地方にかけての村々の家には仏壇が置かれ、毎月集まって題目を唱え、神社や寺への参拝もよく行われているとある。これらの記述から、大村藩が神社や寺院への信仰を住民に義務化する事で、唯一神教であるキリシタン信仰の根絶を図ろうとしている事が窺える。しかし外海地方の住民は、仏教や神道に並存させながらキリシタンの信仰形態を(かくれキリシタン信仰として)継承していったのである。
外海・浦上系かくれ信仰で特徴的に見られる要素として、ハンタマルヤと呼ばれた立像に対する信仰がある。ハンタマルヤ像は、母子ないしは女性の像として作られた徳化窯製白磁像で、従来は慈母観音などの観音像として作られたものをマリア像に擬して信仰したものとして「マリア観音」という名称で紹介されてきたが、近年、宮川由衣氏が18世紀初頭に中国アモイからロンドンに輸出された品物に「Sancta Maria」の記載がある事を確認され、徳花窯製白磁像がヨーロッパにマリア像として輸出されていた可能性を示唆している(「キリシタン伝来のマリア観音の源流をめぐって」)。同種の像が長崎に輸出されていたとすると、中国でマリア像として制作されたものが、長崎輸入時には観音像とされ、浦上や外海のかくれ信者に渡った後マリア像として祀られた可能性がある。なおかくれ信仰は基本的に、キリシタン~禁教初期に宣教師の指導のもとで成立したキリシタンの信仰形態を(他宗の並存という構造の中で)そのまま継承したものだが、ハンタマルヤ像の信仰については禁教時代(18世紀以降)に信者が独自に成立させた要素になる。但しこの信仰要素はあくまで、実際に存在する(した)かくれ信仰に関連して認められるもので、像の存在のみからかくれ信仰が存在した事が導き出せる訳では無い事を断っておきたい。
次に外海地方のかくれ信者が、海を渡って各地に移住した理由について解説するが、ここで鍵となるのが甘藷栽培と間引き(堕胎)の有無である。
『見聞集』に掲載された「慶長十年御領内高目録之事」(1605年)を見ると、17世紀初頭の黒崎村(三重、かし山、長田、しっつ、まきの、あかくひ、池平)の石高は123石余で、耕地は田が8町1段余、畑は6町2段余だった。これらの田畑の割合は1対0.8と田の方が若干広い。次に安政3年(1856)の『郷村記』黒崎村の畑の作付面積を見ると、冬作は大麦3:小麦1:大豆1で、夏作は甘藷2:蕎麦1:粟1/2:他3/2とある。また同史料の外海地方の「売出物」を見ると、雪浦村(切芋、薪)、神浦村(鰹節、鯛、鰤、大海老、平子、栄螺、藍、瀬魚類)、黒崎村(芋、干鰯)、三重村(芋、干鰯)、畝刈村(芋、牛房、里芋)と「芋」と記された甘藷が多い事が分かる。さらに明治18年(1885)の『西彼杵郡村誌』の黒崎村の項を見ると、収量は米790石、麦1401石、甘藷148万斤で、耕地は田84町余に対し畑176町余(改正反)で、田畑の割合は1対2と畑が逆転している。
これらのデータから分かるのは、江戸時代初期の黒崎村は耕地面積も収量も少なく、畑の面積も多くはなかったが、江戸時代後期から明治にかけては耕地面積-特に畑の面積―が拡大し、畑の作物としては甘藷の栽培が目立っている。大村藩の甘藷は、享保17年(1732)の享保の飢饉の際には、藩内で餓死者が出ない程普及していた事が『見聞集』59の記述などから確認できるが、水田に適した平坦地が少なく、台地や傾斜地が多い外海地方では特に有益な栽培植物だった。
出津地区で行った聞き取り調査からも、昭和初期までは沿岸部で畑作と鰯網(八田網→縫切網・巾着網)が行われ、内陸部で田畑作と薪炭の生産で生計を立てていた事が確認でき、外海地方では、畑作としながら漁業に従事する「海の外海」と、畑作を主としながら薪や木炭を生産する「山の外海」の二通りの生業パターンが存在した事が分かった。また耕地は少ない水田と広い畑からなり、畑では主に甘藷と裸麦が栽培されていた。田畑の耕作には牛を用いたが、海岸・内陸共に牧野は持たず、牛は屋内で飼われていて、牧草は自分の持ち畑の周囲か公共地でのみ採取可能で、他人の土地の草を刈る事は固く禁じられていた。また沿岸部では家で使用する薪は、僅かな所有山林からか、山奥の伐採地まで貰いに行っていた。これらの事から分かるのは、外海地方の特に沿岸部では畑の開拓が極限化し、刈敷や牛の飼料にも事欠く状態だったという事だ。昭和8年(1933)に田北耕也氏が撮影し『昭和時代の潜伏キリシタン』に掲載した黒崎集落の景観を見ても、本来、森林を残すべき尾根線まで畑が開墾されていた事が分かる。
野村暢清氏が行った調査によると、外海地方のかくれ・カトリック住民の各家が所有する耕地は、周辺地域に比べて一筆の耕地の面積が極端に小さい上、一軒が所有する耕地が各所に点在するといった特徴が認められるという。野村氏によると、かくれ・カトリック住民では親が息子達に平等に耕地を分ける均分相続が一般的で、度重なる相続の過程で次第に土地が分散・細分化したと推測されているが、その背景について野村氏は、かくれ・カトリック住民が宗教上の理由から堕胎を禁じたため、多くの子供が成人になったためだと推測している(『宗教と社会と文化』)。ただ現在のところ、外海地方のかくれ信者が間引き(堕胎)を禁忌としていた事を裏付けるデータは確認できていない。
熊野道雄氏によると、大村藩では17世紀には島原・天草一揆後に島原領に走り込んだ百姓1,266人の返還を要求する程、人口流出に神経を尖らせていた。外海地方では子供達に分割相続を行ったとしても、新規の開拓によって分家した各家が耕地を広げられる余地がある限りは問題にならなかった。甘藷という栄養生産性が高い作物の存在もそれを後押しして、17世紀には外海地方の人口は一貫して増大傾向にあったと推測される。しかし享保3年(1718)に30歳以下での妻帯を禁じる法令を出すなど(『九葉実録』)、大村藩は18世紀に入ると人口抑政策に転換していく。明和8年(1771)に出された同様の法令には「御領内人数年々相増御高ニ不應諸人及難儀候儀眼前之事」と、人口問題が理由である事が明示されている。
18世紀後期に入って大村藩と五島藩が協定を結び、外海地方から五島に移住が行われたのも大村藩の人口抑制策の一環だったが、受け入れ側の五島藩でも、基幹産業の漁業の振興のためには食料を(畑地開墾による甘藷や麦で)自弁できる労働力の増加は望まれるものだった。例えば久賀島では中央にある久賀湾に面した風波の影響が穏やかな地域には「地下」と呼ばれる元からの住民が水田を拓いて集落を成立させ、湾口の深浦には過去製塩業に従事した竈百姓(地下)が薪生産や海藻採取に従事し、外海に面した南西部の田ノ浦には地下の漁民が、北東部の蕨には平地で稲作を行う地下住民が生活していた。18世紀末期以降に入植してきた「居付」と呼ばれる外海系住民は、久賀島の外海に面した斜面地に畑を拓いて甘藷や麦を栽培し、前の海で小規模な漁を行い、山地で薪を採取して暮らしを成り立たせていった。要は「海の外海」「山の外海」の生業形態を移住先で再現したのである。五島の膨大な未開拓地と豊かな海産資源の存在がそれを可能にしていた。
なお外海地方や五島のかくれ信者には並存信仰要素として山の神を祀った事例が多く見られる。これについてはかくれ信者が従事する薪や用材の切り出しや炭焼き、畑の開拓などに関係すると考えられる。それらの仕事は外海地方のキリシタン信仰が成立した禁教初期以降に盛んになったため、それに対応した信仰要素はかくれ信仰以外で導入する必要があったのである。
一方大村藩では、止まらない人口増に対処するため寛政8年(1796)2月、従来より厳しい対策として次三男の分家を厳重に処罰する法令を出している。この新竈(分家)を厳しく禁じる姿勢が外海地方のかくれ信者の領外逃亡「走り」を引き起こしたと考えられている。平戸藩家老の日記『当職日記』寛政11年(1799)3月6日の項には、大村領から平戸島中部の紐差、南部の古田(大佐志)に95人が逃散してきた事が記されている。
「一 下方筋え大村領之者数十人家内連ニ而相越候段、去ル二日申シ立候ニ付、原宇内早々罷越、相糺候様及指図置候処、則遂吟味罷帰、都合九拾五人程紐指・古田筋江参居候由、口書人数付井元熊太夫差出之
一 右之者共彼方ニ而一統竈分ヶ相願其通相済候処、一軒ニ付三百目宛出銀被申付、凌相成不申候故、罷出候趣共委細口書出候事
一 右之者切手不致所持候由、無切手之者ハ指置候義不相成旨申聞候様、原宇内江熊太夫 内蔵助和平ヨリ申含せ候事」
この文書によると、大村領では「新竈」(分家)をする場合に銀三百目を支払わねばならなくなり、それが出来ないために逃散してきたと申し立てている。なお明治初年にも大村(領)・黒島から平戸島中部東岸の坊主畑、田崎、京崎、雨蘇に移住があった事が『紐差村郷土誌』に記されている。
江戸時代中期の平戸島の山地には、森林のほか藩営の馬牧、村々の牧野・草地として利用されていた広大な土地があった。しかし馬牧は軍制の変化などによって多くが不要となり、牧野や草地もより高度な土地利用に転用されるようになり、外海や五島からかくれ信者が入植して村が興される事になった。平戸島には前述した中部東岸や南部の他に、北部の大久保町、中の原、鏡川町、中の崎、古江半島、中部の上中野、山野、小主師などにも外海系かくれ信者が移住している。
平戸島中部にある中世以来の霊山・安満岳(標高530㍍)の中腹(260㍍付近)にある山野は、江戸時代前中期には藩の馬牧の範囲になっていたが、そこに江戸時代後期、五島から外海系かくれ信者が移住している。慶応2年(1866)の「春日牧図」(松浦史料博物館蔵)には、山野(麻畑)と小主師に移住者の家と耕地が描かれている。山野で聞き取った話では、先祖は小主師に上陸して山野に至り、畑で甘藷や麦、野菜を作り、山から切り出した薪や野菜を生月島に売りに行って暮らしを立てていたという。山野の住民は、生月島の漁業経済に接続することで生活を成り立たせたのである。
平戸地方の外海系かくれ信者の信仰生活については、明治5年(1872)の「長崎県大属報告(宝亀村・紐差村)」が参考になる。この時期、この地域の外海系かくれ信者達はカトリックへの合流を図って、従来関わってきた仏教・神道の信仰から離れつつあった。例えば家内には神棚、仏檀と位牌を祀っていたが、それらを焼き捨て、伊勢太麻も受けなくなっている。また葬儀の際は僧侶・神主に依頼していたのを自葬するようになり、葬式組からも脱退している。また氏神を始め村内の神仏の費用を出していたのも出さなくなり、虫祈祷や神社に雨乞・雨祈祷を行っていたのも、関与しないようになっている。これらの記述から、カトリック合流以前には在地の神社・寺院に関わりながら外海系かくれ信仰を行っていた事が分かる。
また平戸島北部の油水、中の原、大久保、中の崎、鏡川町には、終戦直後頃まで、五島から移住したかくれ信者がかくれ信仰を継続していた。宮崎賢太郎氏の調査によると、大久保、中の崎、油水の信者は一つの組を作って行事を行っていたが、「お水授け」という洗礼を行い、「日繰り」という信仰暦を所持し、オラショを無言で唱えるなど、外海系かくれ信仰の信仰要素を保っていた事が分かっている(「平戸カクレキリシタンの信仰とその現状」)。
元治2年(1865)長崎の居留地内に完成したばかりのカトリック大浦天主堂において、プチジャン神父と浦上の潜伏信者が会合を果たす。その後長崎を中心にかくれ信者への再布教が行われていくが、『切支丹の復活』によると、明治4~5年(1871~2)頃には伊王島の吉太郎が平戸島で再布教を行っていて、平戸島中部の紐差、深川、木ケ津、田崎、木場、宝亀でカトリックに合流する動きが出ている。明治5年には紐差村・宝亀村では、神社の札(伊勢大麻)の受領拒否や僧侶に頼らない葬式(自葬)が問題となっている。その後、明治初期の政府によるカトリック弾圧を経て、明治6年(1873)にはキリスト教の禁制高札が撤廃され、カトリックの布教が認められるが、これによって信者達は長い間信仰を大きく規定してきた禁教政策の拘束を脱し、信仰を表面化すると罪になる恐怖から解放されている。同年4月には平戸島中部のカトリック信者が以後は神仏事に関与しない声明を出しているが、非信者の側はカトリック信者から家や田畑、食料を取り上げたり、井戸の利用を禁じたりしたので、カトリック信者側はこうした行いの停止を県庁に訴え、返還措置がなされている。また同年6月に徴兵反対を掲げた血税一揆が起きた際には、参加者が紐差村のカトリック信者の家に火をつけようとした記録がある。しかしカトリック信者の信仰心は揺らぐ事無く、原田、雨蘇、京崎には仮御堂が建てられ、長崎から時々神父が出張してきて、教理を説いたり秘蹟を授けたりしている(『切支丹の復活』)。明治15年(1882)にはマタラ神父が紐差に着任し、明治18年(1885)には紐差教会堂(初代)が完成している。なお紐差駐在の神父は櫓漕ぎ船を用いて佐賀県の馬渡島まで巡回している。
片岡弥吉氏によると、平戸島では外海系かくれ信者以外でも、紐差、深川、田崎、へごの原に住む在地民(非かくれ信者)の中からもカトリックに改宗する者が出ている。また明治20年(1887)には外海地方に駐在していたド・ロ神父が、紐差村赤松崎に1町2段3畝12歩の土地を買って外海からカトリック信者の高野猿松、坂本卯右衛門・尾下力蔵、島田豊作ら4家族23人を移住させている。
平戸瀬戸東岸の田平地方は、海岸直下から急な斜面が上がって標高80㍍程の台地となり、台地上には丘陵・小山地と谷地・小盆地が交錯する地形が広がっている。北部にある比較的広い盆地である里田原には弥生時代から水田が営まれ、奈良時代には条里水田が整備された、古くから人が住み着いた場所だった。その他の小盆地や谷地にも水田が営まれ、神仏を信仰する住民が住んでいたが、広大な丘陵地や斜面は専ら林地となっていた。
外海地方では江戸時代後期に、大村領から領外へのかくれ信者の移住(逃散を含む)が盛んに行われたが、深堀領では同じ深堀領の長崎半島に若干の移住があった程度だった。明治時代に入ると、カトリックに合流した旧深堀領側の住民の人口増加が深刻となり、その対応に取り組んだド・ロ神父は、殖産事業による経済振興と並行して、カトリック信者の移住を進めていく。そのおもな対象地となったのが田平地方だった。
明治19年(1886)秋、ド・ロ神父は中村近蔵を遣わして田平の横立で山野1町歩3畝余の山林・雑種地を購入し、翌20年(1887)6月に今村丈吉、山口増太郎、島田徳蔵、岩下浅右門の4家族25人を移住させている。明治21年(1888)には南田平村下寺、江里山に3町3段6畝10歩を買い求めて、古川辰次郎、今村庄右衛門、大石紋三郎、松下多市、瀬上源一、島田又右衛門、川原万吉ら8家族31人、26年(1893)には南田平村小手田瀬戸山に山林1町歩を買い求めて川原久平、同喜作、同十兵の3家族14人を移住させている。またド・ロ神父の移住の勧めに応えて私費で田平地方に移住し開拓した人びとも少なくなかった(『瀬戸の十字架』)。田平町下寺から横立に入るところには「謝思移住記念碑」があって次の碑文が刻まれている。
「一八八六年(明治十九年)出津教会主任マルコ・ド・ロー師は伝道士中村近蔵を遣わし、横立に四家族、同二十一年江里山に八家族、同二十六年瀬戸山に三家族に土地を買い与え、移住せしめた。茲に七十五年を迎えるに当り、子孫等相計りて記念碑を建立し、永く両恩師の遺徳を顕彰するものなり」
ここにある両恩師とはド・ロ神父と中村近蔵伝道士のことである。なおラゲ神父も明治19年(1886)横立に1町歩の原野を購入し、黒島のカトリック信者の3家族を移住させている。『永遠の潮騒』によると、外海地方からは明治19年(1886)~32年(1899)に46世帯が、黒島からは明治19年(1886)~44年(1911)に26世帯が、五島からは明治23年(1890)~42年(1909)に12世帯が、平戸島からも明治33年(1900)~昭和4年(1929)に8世帯が移住している。カトリックの移住者は丘陵上の森を拓いて畑や家を作っていったが、開拓当初から甘藷が貴重な食料となった。肥料には海岸の藻を活用した他、魚釣りや磯物拾いをして副菜を確保した。開拓が一段落すると野菜を平戸や日ノ浦、北松の炭鉱地帯に出荷した他、漁業や山仕事にも関って収入を得ている。生向湾では昭和初期に鰯の縫切網が営まれているが、カトリックの住民も網子として働いている。
平戸地域のカトリック信者は当初、普通の家を教会に転用した家御堂を用いたが、明治中頃から各地に教会を建設している。そうした教会の建設には神父による資金の援助が大きかった。世界各地では、ヨーロッパの教会建築の様式と現地の様式が習合する事で新たな様式が創造され、その独自性が評価され世界遺産として登録された例がある。しかし近代日本のカトリックは、殊更にヨーロッパと同じ姿の教会を作る事に固執した。この点が長崎県で当初、教会堂の建築的価値を以て世界遺産への登録を目指した際にはデメリットになった。外国人が見れば、ヨーロッパには同じ姿の教会堂でもっと古いものがいくらでもあるからである。このことについて考えるためには明治以後の日本人が、西洋の文明・文化を日本在来の文明・文化より上位と捉えてきた事を認識する必要がある。またカトリック信者は、明治初期のカトリック合流の際の神仏信仰の放棄で非信者と反目が生じ、禁教解除後もその影響は長く続いている。そうしたなかでカトリック信者は、「進んだ」西洋と宗教で繋がっている意識のもと自己の信仰のモニュメントとして、近代の建築素材であるレンガやコンクリートを用いた西洋式建築の教会堂を建立していったのである。
日本で最初期に建設されたカトリックの教会堂は長崎市の大浦天主堂である。同教会は元治元年(1864)12月長崎の外国人居留地に建てられた外国人向けの教会で、設計や建設指導はフランス人神父が行ったが、実際に建設に当たったのは日本人の職人達だった。外観は西洋のゴシック風教会そのもので、内部の天井もアーチ天井だが、西洋では石材で作る所を木造でアーチを作り、竹を編んだスサに土を塗って漆喰で仕上げている。
幕末から明治中期にかけて各地に建設された初期の木造教会は、比較的目立たない場所に建てられていて、外見も和風建築に近い地味な印象だが、中に入ると天井に木造アーチ(リブ・ヴォールト)が展開する異空間が広がる。
明治の中~後期になると、フランス人神父達が設計した煉瓦造りの教会が建てられるようになる。外見的には様々な形態があり、内部のアーチは尖頭形から半円形への移行期にあたる。平戸島中部の宝亀教会は明治31年(1898)の建立で、教会の「顔」とも言える玄関がある正面には装飾的な煉瓦壁(ナルテックス)を設けているが、本体は木造の洋館建築で、側面にはテラスを設けていて壁面に複数の出入口がある。なお煉瓦はその時代以前は構造材として用い、表面に漆喰で塗って目地を隠していたが、この頃から煉瓦がむき出しの建物も作られるようになっている。
明治末期から昭和初期にかけては、五島出身の大工・鉄川与助が多くの煉瓦造教会を手掛けているが、作例を増す中で成熟度を増し、内部の側面は単層から重層に、正面は一面の煉瓦壁が二面となり、さらに前面に単鐘楼、複鐘楼を設ける形などが現れる。
田平では入植当初、移住者達は今村氏をはじめ信者の家に集まり、毎日曜日祈りを唱え、主日の務めを果たしていたが、信者が増加すると旧吉村氏の家を仮御堂としている。さらに明治36年(1903)頃には仮聖堂を増築、大正7年(1918)には鉄川与助の監督で現在の田平教会(瀬戸山教会)が造られている。本教会は正面には堂々とした単鐘楼を設け、内部には半円形アーチ、側面は完全な三層で構成されていて、鉄川の煉瓦造教会の完成型とされている。なお教会正面は平戸瀬戸に面した側になっているが、これは当時の信者が海上交通を重視し、神父の移動なども船で行われていたからだと思われる。
昭和に入ると最先端の鉄筋コンクリートを用いた教会の建設が行われるようになる。戦前のコンクリート造り教会には鉄川による煉瓦造教会のイメージを重視したA群と、尖塔を多く配したゴシック風の姿を持つB群の2つの意匠が存在した。前者の代表は昭和4年(1929)完成の紐差教会(鉄川与助)で、内部の天井には船底天井を採用している。後者には昭和5年(1929)完成の平戸教会(末広設計事務所)があり、外側には多数の尖塔を配置する一方、内部空間はコウモリ天井を継承している。
平戸市域のカトリック信者は、戦後の昭和39年(1964)には、平戸小教区に属する平戸、上神崎、古江各教会に2,123人が、宝亀小教区に属する宝亀、中野、山野各教会に1,023人が、紐差小教区に属する紐差、田崎、獅子、木ケ津、大佐志各教会に2,529人が、生月小教区に属する山田、壱部各教会に416人が、南田平小教区に属する南田平、以善各教会に1,426人が所属している(『カトリック長崎大司教区100年のあゆみ』)。しかし市域の人口減少に伴い信者数も減少傾向にある。
平戸市域は、470年にわたって連綿と継続されてきた生月・平戸系のかくれ・カトリックの歴史や文化とともに、外海系かくれ・カトリック信者の移住によって育まれた信仰文化や生活史を知る事ができる、貴重な地域なのである。
2021/10/22









