平戸史再考No19 平戸漁業考〔前近代編〕
平戸漁業考〔前近代編〕
平戸市域の漁業については昨年度(令和2年度)実施した連続講座「平戸史再考」の第4回で話す予定だったのだが、1月30日に実施はしたもののコロナで受講者0という情けない形で開講出来なかった。いずれ期を見て再講をと思っているが、今回その内容を2回に分けて掲載する事とした。
漁業は現在の平戸市においても大きなウエイトを占める産業だが、1641年それまで長く平戸の経済の中心だった対外貿易を幕府によって長崎に取り上げられた後は、それに代わる産業として平戸藩の経済を支える事となった(この場合の漁業には捕鯨業も含む)。漁業が成立するためには何よりも捕獲対象が存在する必要があるが、平戸市域の海は、日本海と東シナ海(太平洋)を繋ぐ対馬海峡の一部をなし、朝鮮東岸を南下する寒流・リマン海流と日本列島南岸を東進する黒潮が分流して日本海に流れ込む暖流・対馬海流が出会うことから、両海域の様々な魚種が回遊する。気候的にも冬期には気温が0度前後まで下がるため、冬場に適当な寒さを好む鮪、鯖や鰯の成魚、スルメイカなども多く来遊する。また出入りが多い磯海岸は多くの魚介類を育む沿岸環境を形成している。しかし魚が取れるだけでは漁業は成立しない。自分が取った魚介類を自分で食べるだけの漁なら簡単だが、漁業という産業が成立するためには、取った魚介類を消費する人が大勢居て、その人達まで届ける手段があって、そこまで消費するモノとしての価値を担保する事が必要となる。
人が海や川、湖沼で魚介類を取る行為を漁というが、漁で対象を取る物理的なアプローチには大きく4つある。第1は「掴む」という文字どおり手で対象を握って逃がさないようにして取る方法で、例えば海士が鮑や栄螺を取る漁などがこれにあたる。第2は「刺す」という、対象の内部に道具を刺し込む事で確保するやり方で、銛やヤスを使った刺突漁や釣針を使った釣漁が該当する。第3は「絡める」で、網に魚やエビなどを絡めて取る刺網などが該当する。第4が対象を閉じこめる「囲む」で、これは網や籠などの道具の他に、入江などの地形や海面、潮流などもツールとなり、刺網以外の殆どの網がこれに含まれる。
日本列島で漁が始まったのは縄文時代とされる(南西諸島では旧石器時代まで遡る事を示す遺物が出土している)。同時代の遺跡からは釣針、網に使われたと思われる石錘、骨製の銛先やアワビ起こしなどが出土している。平戸市内でも平戸瀬戸に面したつぐめの鼻遺跡で縄文早期末(約6千年前)の地層からサヌカイト製の石銛先が多数出土していて、鯨類などの突取漁が行われていたと考えられている。また漁具とともに重要なのが船だが、縄文時代に単材を刳って造る船が用いられた事については、昨年の平戸学講座(単材刳船と原始海人の神観念)で紹介した通りである。次の弥生時代にも北西九州沿岸部の遺跡からは縄文時代と変わらない漁具や船が出土しており、「魏志倭人伝」の対馬国の項には「海物を食して自活し」、末廬国の項には「好んで魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る」と漁を行っている記述がある。流通・消費面ではこの時代、内陸に定住して大規模に稲作などの農業を行う集団が登場しているため、そうした集団に魚介類を提供し、米などの食料や鉄などの資材を得る交換が行われたと思われる。平戸市域では水田が開かれた里田原の集団がこうした交換の対象になったと思われるが、この関係は里田原地域に前方後円墳を築くような政治権力が成立した古墳時代まで継続したと考えられる。
漁業に従事する人々は同時に、所有する船と航海技術を活用して運送や交易にも従事したと思われる。古墳時代以降、平戸瀬戸は九州西岸航路の要衝として重要度を増し、里田原直近の港である釜田も中継港として機能したと思われるが、奈良時代に拓かれた東シナ海横断航路が平安時代前期(9世紀)中国商人のジャンク船によって定期航路化すると、中継港となった平戸には中国人を含む貿易関係者が住みつき、その住民や、寄港するジャンク船や九州西岸の沿岸航路を行く準構造船の乗組員達に魚介類などを供給する需要も生じた。中世から近世にかけては、船を住居にしたイエフネ(家船)の集団が沿岸の入漁権を保持して漁を行っており、天保5年(1834)の『平戸咄』には「又家船ト云アリ。是ハ江戸ノ□ノ位ノ船ヲ我家トシテ一家内妻子共ニ此舟中ニテ一生計ヲ営ム物アリ―所謂アマシ―此者共蚫螺ノ類ヲ取リ、又鉾ヲ以テ魚ヲツキ、海草ナトヲ取テ市中ニアキナイテ渡世トス」とある。平戸地域における家船の拠点は平戸瀬戸に面した田助(幸ノ浦)にあったが、幸ノ浦漁民には源平合戦で敗れた平氏の末裔という伝承があり(平氏政権が推進した大洋路の交易活動に家船海民が関与した史実が背景にあるのかも知れない)、江戸時代には松浦藩の船手御用の義務を負担する代わりに藩内各所への入漁が許されていたとされ、「平戸諸島の漁村と漁村問題」では、家船が領内の浦々を回って鮑突やかじり網を行う事を「先規」とする弘化4年(1847)の船奉行の文書を紹介している。『平戸咄』には「家船ノ商人ハ皆女也。老若共ニツツレタル着物ヲ着、素足ニテ半切ノ桶ニ売物ヲ入レテ頭ノ上ニ丸キ輪ヲ一ツ置テ、其上ニ彼ノ桶ヲ戴キナカラ売アリク。其売リ声、鮑ハ、アヲヒキウ、螺ハササイキウ、ミル(海松)ハミルキウト惣テキウト云事ヲ唱フ」とあり、男が取った魚介類を女が売り歩く事で、陸地民に魚介類を供給する役割を果たしていた事が分かるが、家船の拠点が田助(幸ノ浦)であるのも、平戸の住民や寄港する交易船に魚介類を供給する便を考えての事と思われる。また近世に釣漁民の活動が認められる薄香や白浜でも、平戸での魚介類の需要に対応して中世から漁が行われていたものと思われる。
近世(江戸時代)になると全国的に様々な漁業が行われるようになるが、その背景には戦国時代が終了し、国内全域を結ぶ流通体系が整備された事があった。江戸時代の平戸地方の漁業については、最も大規模な捕鯨と鮪定置網を除くと史料が少なく検証困難だが、江戸時代とあまり変わらない明治前期ならば、長崎県の事務簿などに漁業権に関する書類からある程度の把握が可能である。明治16年(1883)の『北松浦郡村誌』に掲載された現平戸市内各村の船と物産に関係するデータから、当時の漁業の概要を見てみたい。
同資料にある船の統計は、積載数(石数)で1000石以上、1000石未満、500石未満、200石未満、50石未満に区別され、50石未満については漁船、艀船(荷船)、農船に細分される。但しこの3区分は大雑把なものだったようで、例えば物産で多くの魚介類が上がっている獅子村では、50石以下の船116艘は全て荷船に分類されている。ちなみに50石未満の船の所有数が最も多いのは平戸村(380艘)で、他に前津吉村(232艘)、浦志自岐村(168艘)、小手田村(115艘)、獅子村(116艘)、生月村(97艘)、山田村(95艘)、古田村(80艘)などが多い所である。
物産で挙げられた魚介類の量も、やはり平戸村が抜きん出て多い。平戸村で突出しているのは鮪で100,000斤に上り、鯛(35,000斤)、鰤(19,000斤)、飛魚(19,000斤)、シイラ(14,000斤)なども他村を大きく引き離す。平戸村には幸ノ浦、薄香、白浜などの漁村があり、北部の油水は江戸時代、日本一の鮪大敷網(定置網)の漁場と言われていたが、鰤やシイラの一部も大敷網の漁獲かも知れない。また周辺漁村の漁民の漁獲が平戸に水揚げされていた可能性もある。鯛は一本釣りの他、幸ノ浦漁民が行っていた事が聞き取りで確認される葛網という船引網で捕獲されたと思われる。藩主や藩士、城下の商人達が居住する平戸や、他国の商人や船乗り達が集まる平戸、田助では、縁起物としても重宝される鯛は、刺身や焼き、煮付けなどで食べられ大量に消費される魚だった。元禄10年(1697)『平戸町年鑑之次第』によると、平戸の町なかだけで魚屋が40軒、魚振売が42人いたとされるが、それらは大福町・祝町・常磐町(魚屋8軒・魚振売9人)、善積町(魚屋9軒・魚振売8人)、恵美須町(魚屋23軒・魚振売25人)と特定の町に集中していた。これらの魚屋や振売の商売を通して平戸周辺などで漁獲された海産物は町方の武士や町人に流通していたと思われる。なお寛政4年(1792)「平戸六町図」を見ると大福町・祝町・常磐町と恵美須町の魚屋は確認できるが善積町は確認できない。また『平戸咄』には「此地(平戸)には生ケスト云物ヲ用ユル事ナシ。故魚ナキ時ニ至テハ何方ヲ尋ネテモ只ノ一尾モ無塩ノ魚ナシ。又海ヨリ取リ来ルヲ生簀ヨリ取揚来ル如ク思ヘリ。扨又イケスニ飼テ痩タル魚ヲ賣アルキタレハトテ買人モナシ」とあり、平戸の人は生け簀に留め置いた魚は買わない程、釣りたて新鮮の魚を当然に思っていた事が分かる。
産物毎の産地を見ると、鰹節は大島村(40000本)、的山村(16000本)など的山大島でほぼ独占的に生産している。また鯣は大島村(30000斤)、生月村(15000斤)、平戸村(8000斤)、獅子村(6000斤)、中津良村(6000斤)、度島村(5000斤)、的山村(5000斤)、山田村(4000斤)などが多い。鰹もイカも釣りで捕獲されるので、これらを産する村には有力な釣り漁師の集団がいたものと思われるが、これらの村はいずれも平戸から離れている事にも留意する必要がある。そうした所で釣漁が成り立つためには、加工して長期保存が可能な物にしても値が付くものを捕獲する必要があるが、特に鯣は長崎から中国に輸出される俵物としての需要があった。
シイラの漁獲が顕著なのは、平戸村(19000斤)、中野村(2100斤)、小手田村(1500斤)、下寺村(1500斤)など平戸瀬戸の沿岸部と、山田村(17000斤)、生月村(15000斤)など生月島岸の2カ所である。この両所は現在も秋のシイラのルアー釣りのメッカだが、シイラは櫓5丁立てのテントブネによる一艘船引網で取られていた。取れたシイラは大型の魚体を半切桶で塩蔵し、伊万里方面などに出荷されておくんち料理で食べられた。現在平戸の代表的海産物となっているアゴ(飛魚)は平戸村(19000斤)のみで確認され、テントブネによる二艘船引網で取られたと思われるが、不思議なことに現在漁が盛んな生月島では水揚げの記録が無い。
乾鮑が多いのは生月村(2700斤)、平戸村(1900斤)、山田村(1200斤)などだが、生月村の壱部浦にはカツギ(潜水漁民)が居り、平戸村でも幸ノ浦漁民がカツギを行った。乾鮑も俵物として長崎から中国に輸出されている。
一連の記録を見て奇異に思うのは鰯を漁獲している場所が少ない事で、干鰯が上がっているのは度島村(25000斤)、平戸村(14000斤)、中野村(1000斤)しかない。後で詳しく述べるが江戸時代には紀州の漁民が関東に進出して大規模な鰯地引網漁を展開し、地引網に適した砂浜が無い海域では八田網が開発され、五島にも導入されている。取れた鰯はそのまま干されて干鰯(ホシカ)となり、畑の商品作物の肥料となったが、肥前国は明治初期には日本一の鰯の水揚げを誇っていた。にもかかわらず平戸地方の鰯漁業はこの記録を見る限り低調だとしか言いようがない。鰯が沢山居た事は、明治の終わり頃から生月島や的山大島で鰯和船巾着網が盛んに行われた事から推測されるのだが、何故鰯漁が低調だったのかについては明確な答えが見いだせていない。
これから近世平戸地方の特徴的な漁業を個別に見ていくが、最初に最も古い歴史を持つ潜水漁(カツギ)を取り上げる。既に記してきたように潜水漁は縄文、弥生時代以来の歴史を持つが、平戸地域で近世にこの漁を行ったのは生月島の壱部浦と舘浦、平戸島の幸ノ浦などに限られていた。潜水漁は海底や水中にいる魚介類を(オコシガネなどの道具を用いて)手で取ったりヤスで突いたりして取るシンプルな漁だが、長く深く潜るためには鍛錬が必要な上、ガラスを用いた探水具(水中眼鏡など)が導入される明治以前には、見えにくい裸眼で海底を探さなければならず相当の熟練を要した。そのため潜水漁を行う海士(アマ、アマシ)は、古くからその漁を行ってきた特定の集落の者に限られた。但し深く潜る必要が無い磯では沿岸の住民が採集していたと思われる。
古代~中世には、海士が取った鮑から熨斗を作ったり、鮑の中からたまに取れる真珠が重要な漁獲だったが、近世以降は、鮑を茹でて乾燥させた干鮑が長崎経由で中国に輸出される俵物として重視されたため、沿岸諸藩は海士・海女の領内操業に便宜を図ったり、他領の海士・海女の入漁を許している。後年捕鯨で財をなした益冨家も、『先祖書』には「畳造作を以て世を渡申候、右ニ付、家号を畳屋と申候、其後生月之黒木村ニ移り鮑座を初メ候由」と、畳の製造とともに鮑の仲買をしたとあり、生月島で取れた鮑を集めて長崎の俵物商人・春善次郎に送る仕事をしていた記録もある(「徳川期九州に於ける捕鯨業の労働関係」)。『平戸咄』には「蚫ハ生属嶌ノ鯨ツキ猟師-是ヲハザシト云-水底ニクグリ-クヽル事ヲカツグト云-是ヲ取ル。螺モ同シ。」とあり、冬から春には鯨組に雇われてハザシ(羽指)役に従事した生月島の海士が、夏から秋には鮑や栄螺の潜水漁(カツギ)に従事していた事が分かる。
次はアゴ漁である。アゴとは飛魚の方言名で、長い胸鰭を広げて滑空するように飛ぶ事ができ、海面上2㍍位までを100~300㍍ほど飛ぶ事ができる。体長30㌢を越える成魚は初夏、定置網などで捕獲されるが、平戸地方で9月頃に捕獲されるのはホソトビウオやツクシトビウオ、ホソアオトビが初夏に生まれて後2~3カ月程経って20㌢程に成長した幼魚である。アゴの名称は1603~04年頃長崎で編纂された『日葡辞書』に登場するが、松浦静山の側室・蓮乗院の日記の享和3年(1803)の項に干しあご、翌年には焼きあごが江戸藩邸に届いた記載がある(久家孝史氏教示)。また『平戸咄』には、漁や製品についての次のような記述がある。
「八月ハ北風ノ吹日ニ、小船ニ網ヲ仕込テ、平戸ノ瀬戸ニテ、アゴト云魚-トモ魚ノ如クシテ小サシ-ヲ取ル。年ニ寄テ猟不猟アリ。此魚焼テ干シ付、勝魚節ノ替リニ用ユ。又生魚ヲ擦テ蒲鉾ニスル時ハ、至テ旨シ。魚デンニモヨシ。只炙テ喰ヘハ不旨、生ヲ塩ニシテ干タルヲ丸干ト云、風味ヨロシー焼テタタキヒシキテ食ー。焼テ干タルヲヒボカシト云。此魚猟アル末ニ至テ、飛(ヒ)魚金山ナト云魚トルル事アリ。此頃ニ至テ、アゴ猟ヤム-アゴトレサルニアラズ、ヒ魚トルニ利多ケレハ-」
この記述にアゴの漁場として平戸瀬戸が登場するのは、前掲した『北松浦郡村誌』にアゴの漁獲が平戸村のみで確認できる事と一致する。北風が吹く日に漁を行うのは現在のアゴ二艘曳網漁でも同じで、群れをなさないアゴは、北向きに開けた入江の奥に、9月頃から吹く北風で吹き寄せられて密度を増した所を捕獲されている(注:筆者は一定海面を網で囲った後引き上げる網漁を「引網」、袋状の網を曳航し続けて対象を捕獲する網漁を「曳網」と区別している)。生月島では昭和初期頃まで、二艘のテントブネでアゴが密集した海域を網で囲み、網を船上に引き上げて取る二艘船引網で捕獲されている。また平戸瀬戸に面した田平町生向でも一艘船引網でアゴを取っていたが、こうした船引網が江戸時代のアゴ漁でも行われていたと思われる。
次は鰯網漁である。明治時代の終わりになると和船巾着網で鰯が取られるようになり、平戸市域の重要産業となるが、『北松浦郡村誌』に記された明治16年の状況を見る限り、度島と平戸村でしか鰯が取られていない。『平戸咄』には「イワシ、油気薄ク風味ヨシ。薄香ト云浦ニテ取ルヲ賞美シテ薄香イワシト云。来ルニ近年ハ薄香ニハ少ク河内ト云浦ニ多シ上品也」とあり、平戸村の産地は薄香である事が窺えるが、油分が少なく食用にしていて肥料用の干鰯の記述は無い。また「度島誌」(1951年)には、度島に天保10年(1839)に鰯網が2統あった事や、慶応3年(1850)には5統に増す事を願い出て許可され、またカナギ地引網も天保~弘化年間から始まる事などを記した資料があるとしている。
日本列島沿岸で漁獲される鰯には真鰯(方言名ヒラゴ)、片口鰯(エタリ又はタレ)、潤目鰯などがある。日本近海の真鰯の産卵場は三ヶ所程あるが、九州系群の鰯は五島灘から天草・甑列島あたりを産卵場とし、1~4月にかけて(中心は2月末から3月半ば)水温15~17度の温水域で産卵する。以前は5~6歳で産卵していたが、資源が減少気味であるためか今では2歳頃から産卵するという。4~5月、生まれたての真鰯は餌の多い沿岸部を回遊し、成長するにつれてだんだん沖合に移動する。根獅子での聞き取りでは、真鰯は成長とともにチリメン(3㌢以下)→シラス(5㌢程)→セグロ(6㌢程)→小羽(10㌢程)→中羽(20㌢程)→大羽(30㌢程)と名前を変える。梅雨明け頃には小羽鰯、晩夏にはさらに成長して中羽鰯になり、秋以降には北上して日本海に向かう。それまでは片口鰯や潤目鰯も混じって群れを形成する事も多いが、真鰯・潤目鰯が多いと片口鰯が少なく、片口鰯が多いと真鰯・潤目鰯が少ないという。1歳になると沿岸には寄らず日本海の沖合や沿海州側にいるが、2歳になると種類毎の群れを作り、日本海西部から九州北部へと南下しながら産卵場を目指す。この時期の鰯を大羽鰯と呼ぶが、生月島では1月中~下旬にかけて島の前目(東海域)に到来する卵を持った大羽鰯をセキイワシ、その後2~3月にかけて島の後目(西海域)で取れる産卵後のものを彼岸鰯、さらにその後3~4月にかけて五島沖で取れるものを春大羽と言い、特に産卵前の脂がのったセキイワシは昭和初期には重要な漁獲対象だった。
鰯網漁は江戸時代、全国各地で大規模な産業的漁業として発展した。九十九里浜などで江戸時代初期以降発達した地引網は、船を用いて岸近くに回遊してきた鰯群を、半ば取り巻くように投網し、両側の綱の先の綱を陸から引いて網を浜に引き上げる漁法である。しかし九十九里浜のように沿岸の海底まで網かがりをしない砂浜が続く長大な海岸は、平戸市域を含む長崎県沿岸では殆ど無いため、鰯を取るためには地引網以外の網漁を導入する必要があった。
巾着網導入以前の明治中期頃の長崎県下の鰯網漁の状況は、概ね江戸時代の状況と同じだと思われるが、明治29年(1896)刊行の『(長崎県)漁業誌』の鰯網の項には、八田網、縫切網、高網、地(船)曳網、片手地(船)曳網、小鰯網、小鰯地(船)曳網等の名称が確認でき、明治15年(1882)に制作され『漁業誌』の参考資料となったと思われる『五島列島漁業図解』にも地曳網(実際には船引網)と八田網が紹介されている。この二つの鰯網漁は当時五島の鰯漁における主要な漁法だったと思われるが、なかでも八田網は当時最大規模の鰯網漁だった。
八田(駄)網は、夏から秋の小中羽鰯漁に用いられた網漁である。夜、灯船で火を焚いて鰯を集めた後、2艘の網船が灯船の手前で、四角の網の上辺のみに浮きを付けた網を縦に沈めた後、灯船の両側に進み、網の両横辺に付けた綱を引き上げる。さらに2艘の口船が灯船の先まで進み、底辺に付けた綱を引き、鰯の群れをハンカチで掬うように捕える。八田網は,地引網が出来ない磯海岸の沖で鰯漁を行うために開発されたと思われるが、参加人数も『五島列島漁業図解』の図を数えると50人を越える。明治前期以前の度島や平戸村(薄香か)では八田網が行われた可能性があり、「平戸地方の漁村と漁村問題」(1951)によると、生月島にも明治35年(1902)に黒島や薄香の漁業者が八駄(田)網で入漁したとされる。
なお平戸地域では珍しく砂浜海岸がある根獅子では昭和初期以前、春の小鰯を取るために地引網が行われていた。根獅子では二艘船引網も行われていて、網船2艘(全長六尋の船)と口船2艘(四尋テンマ)で一統をなし20人程が乗り組み、春から初夏にかけての夕暮れ時に湾内に入ってくるシラスの群れを、沖から岸側に向かって両側に網を下ろし、口船で網の袖側に仕切網を張って捕獲した。
最後は定置網である。これは水中に固定的に網を張り回して閉鎖空間を作り、一部に開口部を設け、そこから中に入った魚介類を捕獲する漁である。山口和雄の『越中灘浦臺網漁業史』(1939)によると、日本列島の「臺網」と呼ばれる旧定置網漁業には富山、山口、岩手を発祥とする三系統があり、富山系を臺網、山口系を大敷網と呼び、この両者は形状・構造がほぼ等しかったとしている。一方岩手系は建網と呼ばれ形状が異なっていて、のちの大謀網の起源とされる。江戸時代の東松浦半島、壱岐、平戸地方、五島列島にかけての地域には大規模定置網の漁場が多数存在したが、そこで行われた大敷網は前述の山口氏の論考では山口系に属するものとされている。この網について山口氏は、『日本水産史』(1957)の「網漁業」の項で南西系大敷網という名称で紹介しているが、長門国(山口県)豊浦郡湯玉浦で江戸時代初期(元和年間)に創設された小型の湯玉式大敷網が五島や平戸方面に伝わり大型化したとしている。後述するように、平戸地方や五島で「鮪網」の名称で呼ばれる大敷網の操業が確実な史料で確認できるのは享保年間以降で、湯玉浦で創設されたとされる時期と100年のタイムラグがあるが、その間の史料は今のところ確認されていない。湯玉浦江戸時代初期起源説やその北西九州伝播説は、大正3年(1914)刊行の『山口県豊浦郡水産史』にある、湯玉浦で元和年間(1615~24)に発祥し、寛永3年(1626)に同地の新屋長兵衛が五島玉之浦に鮪大敷網を出したという記述(二次資料)に拠っており、また文化年間頃から明治~昭和初期にかけての時期、山口県方面から大敷網漁業者が盛んに西海漁場の各地に出漁していた状況が、記述に説得力を与えたものと推測する。
日本列島における定置網の始まりは、能登から越中にまたがる富山湾沿岸地域で、小境卓治氏の研究ではおそらくは15世紀末頃まで遡るとされ、確実なものとしては慶長19年(1614)に加賀藩が網の運上銀を受け取った史料が存在する。同地域で行われていた台(臺)網について、天明5年(1785)「鰤臺網」図(東京水産大学羽原文庫蔵)を見ると、深いちりとり形の身網(本網)の脇に、岸から長く伸びた垣網(道網)が付く形で、本網の奥辺に並行して丸太を束ねた大きなダイ(台)と呼ばれる浮きが付いている(横ダイ式)。なおダイと同様、丸太を束ねた浮きが本網の左右の端と、道網の末端に付けてあり、それ以外の網には桐の木で作ったアバ(キリアバ)が付いている。江戸時代後期の「氷見浦秋網網場図」を見ると、沖に向かって身網が最大10も連続して直列し、その間に垣網が張られて長大な壁のようになっている。台網は、岸沿いに回遊してくる鰤や鮪を垣網でせき止め、垣網伝いに沖に向かう魚群を身網に誘導して捕る形なので身網の口は岸側に向いているが、その場合の横ダイ(海岸と並行)は、沿岸流の抵抗が小さい点で合理性がある。
西海漁場で大敷網が行われた事を示す史料としては、生月島を本拠地として鯨組を経営した益冨家に関する一連の史料がある。『先祖書』の中には、益富家が捕鯨を始めるきっかけとなった出来事として、先祖の又左衛門が生月島の東沖にある中江ノ島の付近を航行していた時に、海中から「異形之者」が出現したという記述があり、その時異形之者は先祖の畳屋又左衛門に「身を立んと思ハヾ先ツ鰤網をせよ」と言ったとされるが、それを守った又左衛門の子孫は「遺言之通鰤網致させ候処、外之網師より不思儀ニ大漁相続き、次第ニ家富み栄へ申候」とある。先祖書という史料の性格上、かなり後世になって記された二次史料である事は明らかだが、益冨家の他の文書にも享保7年(1722)に益冨家が鮪大敷網の共同経営者になったり、享保9年(1724)に生月島の松本の鮪大敷網を経営したという記録があり、益冨家が捕鯨を開始した2年後の享保12年(1727)にも、生月島北部の元浦の鮪網代を開発し、請浦を平戸藩に申請した記録がある。このように益冨家は大敷網の経営に関わって資本を蓄積してから捕鯨を実施しているが、捕鯨開始後も、鯨組の従業員におかずの魚を供給する名目で大敷網の経営を続けている。この益冨組の鮪大敷網ではある年、春の漁期だけで松本漁場で5252本、元浦で3321本の水揚げがあったとされ、相当な量の鮪を捕獲している事が分かる。なお生月島松本には以前、定置網の納屋があり、その横に享保11年(1726)に平戸町の山口屋が建立した花崗岩の供養碑が残るが、恐らくは大敷網の操業で亡くなった従業員の供養のために建てたものと思われる。こうした一連の史資料から、鮪や鰤を取る大敷網が享保年間頃には始まっていた事が分かる。なお益冨家文書の『諸々組方永代記』(天保9年・1938)によると、的山大島では明和年間(1764~72)頃から文政6年(1823)頃までは鮪漁(大敷網)が盛んで、島内で困窮する者もいなかったが、天保9年頃には鮪の漁も無くなり困窮していたという。
江戸の絵師、司馬江漢は長崎旅行の帰路、天明8年(1788)から翌年にかけて平戸や生月島に滞在しているが、その際生月島松本で大敷網の鮪漁を見学した事を『西遊旅譚』や『西遊日記』に絵や文で紹介している。以下は『西遊日記』の記述である。
「(一二月)八日、曇、此嶋の西の方松本と云処鮪アルよし、朝より(益冨)又之助(縣)新四良同道して行クに、鮪二百四十二疋と云、大漁の時ハ千も取レるよし。さて其鮪ハ山ゝの腰を群て回る者故、山の腰に網をしき張ル。其ハ幕の如くにして底なし。亦鮪見楼を建て、鮪来ル時ハ旗を出して之を知らせる。口網の舟之を見て網の口をしめる、網底なしと雖、鮪下をくゝりて逃る事なし、爰ニ於て舟四方ヨリあつまりかこんで、一方より麻綱の網と布かへ舟六艘ニてかこむ。時に鮪誠に小魚を掌にすくゐたる如し、夫を鳶口の様なるかぎにて引揚る。海血の波立ツ、誠ニめつらしき見物なり。」
なお『西遊旅譚』には、鮪大敷網に附属して鮪見楼という鮪が網に入ったのを確認する井楼の図が紹介されているが、松本以外の図でも以下のように鮪見楼など大敷網に関する施設が確認できる。「田助浦」○湾口の岩礁上に楼○浦の左(南)側の岬上に楼、「須草」□入江脇に鮪納屋、「生月島之図」○琵琶岳より右(北)に楼と網(浜沖網代か)○琵琶岳の下に楼と網(加瀬川網代か)○一部浦の左(南)端に楼と網(正前網代か)、「孩子岳」○孩子岳の下に楼と網(正前網代か)、「鯨を囲図」○三(御)崎浦の左に楼と網が2カ所(浜沖網代と鳥瀬網代か)○鞍馬鼻の南に楼と網(元浦)、「志作(佐)より今福の間」○丈島の手前の海中と陸地に楼
また『海鰌図解大成』にも次のような鮪の網代についての記述がある。
「又高松(シャチ)に次ものハ鮪なり。摂州にてハはつといひ、江戸にてハ真黒といふ。是ハ平戸島の油水といふ処日本一の鮪網代場。同州生属、魚目有川、幣州(壱岐)にも壱岐郡諸津、同いたび津、□崎川、八幡、印通寺綿浦、黒嶋等にあり。」
この記述から鮪大敷網は平戸島、五島、壱岐で盛んに行われているが、特に平戸島の油水が日本一の漁場とされている事が確認できる。
西海漁場の大敷網の形態については、本網の奥に付く最も重要かつ大きな浮きであるダイが、網の奥辺と平行に付く横ダイ型と、奥辺の外側に直交方向に付く縦ダイ型がある事が確認できる。当時の大敷網の形態が分かる最も古い史料として安永2年(1773)頃に制作された『肥前国産物図考』があり、佐賀県東松浦半島東岸の屋形石にあった鮪大敷網を描いた図が紹介されている。この図の網は網の奥辺と平行にダイを取り付けた横ダイ型だが、本網は海岸と並行に敷かれ、横ダイは海岸と直交する向きになるため沿岸流の障害になるが、恐らくは潮行きがそれ程強くない海域に敷かれた事が考えられる。このダイについては「たい(台)と云浮けなり。丸太或は五六寸廻りの材木にてもする也。長さ二間半斗」とあり、長さ2間半(4.5㍍)位の丸太か材木を集めて縄で括ったものだという。一方で、本網の側や袖網に付く浮きは竹を束ねたものとあり、恐らくは孟宗竹を用いたものだろう。ちなみに網を固定する錘の方は網袋に石を積めた「びく」である。また海岸と並行する向きに口を開けた網口には、両側に斜め前方に延びた袖網が付く。
一方、前掲の『西遊旅譚』にある生月島松本の大敷網の平面図には、本網の奥行が300尋(約540㍍)、網口幅180尋(約320㍍)という非現実的な寸法が記してあるが、奥が細まった三角形の平面プランの本網は海岸と並行方向に敷かれ、網奥の背後に二本のダイが網の奥辺と直交方向に付いた縦ダイ(二本)型である。本網が海岸と並行に敷かれる場合、縦ダイは沿岸流の障害にならないため、潮流が強めの場所でも設置可能だった事が考えられる。なお同史料にはダイの材料についての記述はないが、普通の浮きの図には浮きは竹を2本束ねたものと書かれていて、孟宗竹の使用が推測される。
このように江戸時代後期から明治時代にかけての佐賀県や長崎県下の大敷網については、ダイの付き方で横ダイ、縦ダイ(一本、二本)の二パターンがあるが、本網は概ね海岸と並行方向に設置されていて、網口の両側には斜め前方に短い袖網が開き、沿岸伝いに回遊してきた鮪を袖網で受けて本網に入れる、いわばパチンコのチューリップのようなスタイルである。
明治32年(1899)の『第二回水産博覧会審査報告』にある、長崎県南松浦郡岐宿村の西村団右衛門の大敷網の解説によると、大敷網には雑魚を主対象とした小型の湯玉敷と、鮪を対象とした大型の五島敷があり、五島敷にはさらに大型だが強い潮流の所には向かず、明治後期には用いられなくなった小値賀敷と、明和4年(1767)に先祖の団左衛門が発明した鯨や大群の鮪を取るのに適した正山敷があり、その構造は湯玉敷と小値賀敷の中間だという。
湯玉敷について検討するために、山口県の吉留徹氏から御紹介いただいた「明治15年水産慣例原稿」に掲載された北浦各所の大敷網の図を見ると、横ダイ式で網口の片側から岸まで長く道網が延びているものが多い。さらに同じく清水満幸氏から御紹介いただいた越ケ浜漁協の「漁業権漁場図」を見ると、海岸に直交する方向に延びた道網の先に三角形の大敷網の本網が付き、網口は海岸を向いている。この配置だと沿岸流を受け流すため横ダイ式には合理性がある。これらの図からは明治以降の状況しか確認出来ないが、そこで確認可能な湯玉敷の特徴としては、長い道網を持ち、本網は網口を海岸側に向けて設置した横ダイ式という点が挙げられる。
これらの情報を下敷きに江戸時代の定置網の伝播について一つの仮説を立ててみた。まず16世紀迄に富山湾の沖に向かって伸びた道網の先に網口が海岸を向いた横ダイ式の身網(本網)を付けた台網が成立し、17世紀初頭頃にはそのままの形で山口県北浦に伝わり湯玉敷大敷網が成立する。そして18世紀当初になると北西九州沿岸で鮪を捕獲するために、湯玉敷大敷網の本網を大型化し海岸と並行方向に口を向ける方向に変え、網口の両側に斜め前に伸びる袖網を付けた横ダイ型の小値賀敷大敷網が開発される。この網はいわば台網の身網をそのままの形で網口の方向を変え、道網を袖網に変えたものだが、横ダイが沿岸流の抵抗になり沿岸流が強い網代では使えない弱点があった。そのため18世紀後期までに沿岸流の妨げにならないよう海岸と並行方向に変えた縦ダイに改良した正山敷大敷網が開発されたと思われる。
先に紹介した『肥前国産物図考』に描かれた屋形石の大敷網は小値賀敷になるが、この図の浮きには未解明の部分がある。一つには横ダイの上に松と思われる木の枝(だい木)と御幣が3組立ててある事だ。瀬戸内海で行われる引網には、中央のイオドリ部分にあるミトアバをエビスアバといって神聖視する習俗があり、大敷網ではダイがミトアバに相当する存在なので、それを神聖視する習俗があった可能性もあるが、今のところ御幣が確認できる例はこの屋形石の図だけである。一方、木の枝を立てる例は、明治15年(1882)『水産慣例原稿』に掲載された山口県北浦沿岸の湯玉敷大敷網や、明治15年(1882)『五島列島漁業図解』に掲載された五島若松島浜ノ浦の小値賀敷大敷網など(いずれも横ダイ式)で確認されるが、湯玉敷の起源と思われる富山湾の台網では確認できない。もう一つはダイや浮きへの孟宗竹の利用だ。昭和初期には孟宗竹が浮きをはじめありとあらゆる漁具や施設の素材として用いられているが、目下の孟宗竹の国内導入時期は元文元年(1736)と以外に新しい。これについては孟宗竹を導入した薩摩藩が天保8年(1837)に建立した碑にある「仙巌別荘の江南竹の記」という碑文が根拠になっているが、享保年間頃に導入されたと考えられる北西九州の大敷網も、当初は丸太を束ねたダイや浮きを用い、18世紀後半になって孟宗竹を用いるようになったと思われる。安永2年(1773)の屋形石大敷網ではダイには木を用い、他の浮きには竹を使用しているのは過渡期の状況と思われるが、明治15年(1882)『五島列島漁業図解』の第一図(鯨敷網)のダイは竹60本を束ねたものと記されているように、明治に入る頃にはダイも含めた全ての浮きが孟宗竹製になっていたようだ。
また捕獲した鮪の利用についても問題がある。というか現状の近世鮪定置網漁の研究においては寧ろそこが最も大きな問題である。というのもいくら沢山鮪を取っても、消費地まで辿り着く製品として供給されなければ漁業として成り立たないからである。平成29年(2017)に生月島で開催した定置網シンポジウムでは、西海だけでなく富山湾でも三陸でも定置網ではたくさんの鮪を取っていた事が報告で確認されたが、それらの鮪はいったいどのような製品としてどこに行ったのだろうか。橋村修氏の報告では醤油漬けにする加工法も開発されていたとされるが、鮮魚としての鮪の流通について『西遊日記』には次のような記述がある。
「さて平戸城下、海岸に人家並ヒて、此節鮪漁ニて大船岸ニ着。鮪を積ム事一艘に何万、数艘に積ム故海の潮鮪の血流レて赤し、鮪船此時雨の嵐に帆を張り、玄界灘を過て下の関に至り、防州灘を越へ、阿波の鳴戸を渡り、志摩の国鳥羽浦ニ掛ケ、伊豆の東洋を経四五百里の海上七八日ニして江戸ニ着、十二月五嶋マグロと云物なり。兼て船に塩を貯へ、船滞る時ハ塩漬にす、其価十分一となる。此地其後追ゝ漁する物ハ皆油ニす、鮪一ツ船より船に買に金四十五匁位なり、故ニ塩ニしてハ大損とぞ、鮪一斤ニて三十二文なり、肉黒赤し、毒アリ、伊豆海ニて漁する鮪とハ亦別種なるベシ、唐蘇州辺ニてハ大キサ八九尺大毒ありて人不喰とぞ」
このように18世紀末には平戸港に来航した大船が、鮪が取れると鮮魚で江戸まで運び、12月頃に「五島鮪」という旬の魚として販売して大きな利益を上げていた事が分かるが、途中で航海が滞ると塩蔵せねばならず、売値が大きく下がる投機的な商売だった。天保5年(1834)の『平戸咄』にも鮪船の話が登場する。
「冬ハ他国ヨリ鮪ヲ買ニ来ル。舩十反帆十五反帆廿反位ノ舩数十艘、平戸ノ港ニ纜ヲ繋キテ、鮪ノ大猟ヲ待テ、夥敷買込テ積帰ル。故ニ冬向ハ猟事ニ因テ景気ノ善悪アリ。モシ鮪猟少ナキ時ハ、滞舩ノ中土地ニ上リ博亦ヲ為シテ打マケ、鮪買フ元手モ遣ヒ果シテ空船ニテ帰ルモアリ。又平戸ノ浦ニテ春ヲ迎ヘルモアリ。」
鮪が少ない時には様々な魚を塩蔵にして持ち帰る事も記されているが、鮪の水揚げを待っているうちに博打で購入資金を使い果たす者もいたとあり、当時の鮪の商いの加熱ぶりが窺える。なお『寛政4年(1792)「平戸六町図」を見ると、鮪網主として肥後屋新次郎、丸屋治右衛門、恵美須屋銀左衛門、魚目屋三郎左衛門、板尾市兵衛次などの名前が確認でき、平戸町人からも鮪大敷網の経営に当たる者がいた事が分かる。また彼らの中には問屋を兼ねている者が多く、『西遊日記』や『平戸咄』に記された鮪船による買付けに協力していたものと思われる。
寛政10年(1798)の『日本山海名産図会』の「鮪」の項には、産地として「筑前宗像、讃州、平戸五島に網する事夥し、中にも平戸石清水の物を上品とす」と、平戸五島の産地の中でも平戸岩清水の鮪が良品と紹介されているが、石清水なる地名は不詳で油水の聞き違いの可能性がある。この史料には鮪の身を切ったもの(ハツノミ)を販売していたとあるが、以前は好まれた味が最近は飽きられ、饗膳に上がる事は無くなったが庶民に人気がある食材(八珍)になっていたとある。江戸での用途は刺身や漬けとして流通した事が考えられるが、主に傷みにくい部位である赤身が流通した事は、寿司の「鮪」が赤身である事からも推測される。また『日本山海名産図会』には「漁人これを捕て脂油を採り、或は脯(ほじえ・ほじし、干肉)に作る」とあり、初冬に鮮魚で流通する以外は鮪油に加工したり、干物にしたと思われる。なお大正2年(1913)の『日本水産製品誌』には鮪節の製法が紹介されている。
2021/09/22









