長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸史再考No18・平戸市域の民衆芸能

平戸市域の民衆芸能

 

今年(令和3年)もコロナ対策で平戸市内の盆行事の多くが中止となった。以前から市内の民俗行事は担い手不足などの問題を抱え、継続が困難な状態が続いていたが、かりに来年度に開催できる環境になったとしても、行事の再開は容易ではない状況である。行事の継続は基本的に継承する団体の構成員の意志が全てだが、私としては、その行事の価値について理解できる情報をできるだけ多く正確な形で提示する事しかできない。そうした理由も含めて今回は、平戸市内で民衆が主体となり継承されてきた芸能行事の発生と歴史的経緯について紹介したい。

ジャンガラ(自安和楽)は、着物姿の男性が腰の前に鞨鼓(締太鼓)を付け、花笠をかぶり、鉦や太鼓の拍子に合わせて踊る芸能である。平戸市域では平戸島全域の10カ所(うち中野は2カ所)と的山大島の大根坂に分布するが、生月島、度島や、田平を含む北松浦半島には存在しない。ジャンガラは盆前後の時期に寺社や公共施設、個人の家などを回って披露されるが、踊りの構成には大きく4タイプがある。Aタイプは鉦と鼓を持つ者が別個に踊る形。Bタイプは鉦と鞨鼓を持つ者が相対して踊る形。Cタイプは鞨鼓を持つ2人が闘鶏の如く踊る形。Dタイプは鞨鼓を持つ1人が踊る形である。なお今の各地区のジャンガラの概要は次の通りである。

〔大根坂〕8月14~15日に実施。寺社や役職者の外、新盆の家や墓で踊るのが特徴である。踊りはAタイプで、鉦打ち2名が横に並んで踊り、花笠の踊り子が縦に3人並んで踊る。踊り子の踊りは鉦打ちの鉦に合わせて踊るが、鉦打ちと踊り子の踊りの形は別個である。鉦打ちは花笠を被らず紺の着物を着る。踊り子は鞨鼓を付け花笠を被るが、鞨鼓は細長く打面も小さく叩いて音を出す事は無い。花笠には20センチ程度の短い小さな紙花が密集して付く。笠の前面のみに紺色の四角の布が付いて顔を隠す。踊り子の着物は紺色の短い帷子で、下には短いズボン状のものをはく。なおAタイプ以外には基本的に踊り子の周囲を囲む形で側打ちが存在する。鳴り物は鉦だけで、太鼓、笛はない。

〔平戸〕戸石川地区が8月18日に実施。踊りはCタイプで、「中打ち」と呼ばれる踊り子が2人向き合って踊り(1人で踊る場合もある)周囲に10名程の「太鼓」と呼ばれる踊子が半円形に並び、その後ろに幟持ちが並ぶ。踊子の装束は、短い鞨鼓を付け花笠を被る。花笠の紙花は中央に一本伸びた大菊を囲むように四本の菊が斜めに突き出し、根本には御幣状の色紙が多数付く。笠の前面2/3に幕布が付き、その柄は赤黄青黒白の横ストライプである。踊子の着物は大きな紺のチェック柄である。鉦打ちと笛吹きは花が付かない普通の笠を被り、踊る事は無い。幟には縦方向に様々な色や柄の布が並ぶ。鳴り物は笛、鞨鼓、鉦。なお平戸はもともと中野のジャンガラに付帯して幟だけを出していたが、明治になって他地区のジャンガラが平戸に来なくなったため、戦後に中野のジャンガラを参考にして踊りを結成したとされる。もとは中野と同じ一人踊り(D)だったのが、近年2人が向き合って踊る形に変わったとされる。

〔中野川内在〕8月16日に実施。踊りはDタイプで「中踊り」1人が踊り、後ろに同じ装束の「ぐるり」と呼ばれる踊子が4人直線に並び、離れた所に幟持ちが並ぶ。踊子は短い鞨鼓を付けて花笠を被る。花笠の紙花は中央に1本伸びた大菊を囲むように4本の枝花が斜めに突き出し、根本には御幣状の色紙の「房」が多数付く。笠の前面2/3に幕布が付き、その柄は黒赤(赤の上下に白縁取り)黒白黒の横ストライプである。踊子の着物は小さい紺チェック柄。鉦打ちは花無しの笠を被り、踊る事はない。鳴り物は笛、太鼓、鞨鼓、鉦である。

〔中野山中〕8月16日に実施。踊りはDタイプで「中踊り」1人が踊り、後ろに同じ装束の「ぐるり」と呼ばれる踊子が5人直線に並び、離れた所に幟持ちが並ぶ。踊子は短い鞨鼓を付けて花笠を被る。花笠の紙花は中央の1本伸びた大菊を囲んで4本の枝花が斜めに突き出し、根本には御幣状の色紙の「房」が多数付く。笠の前面2/3に幕布が付き、その柄は上から黒赤(赤の上下に白縁取り)黒白黒の横ストライプである。踊子の着物は紺のチェック柄。鉦叩き2名は浅い笠を被り、踊る事はない。鳴り物は笛、大太鼓、鞨鼓、鉦。

〔宝亀〕8月15日に実施。踊りはBタイプで、2名の「中踊り」は1人が腰前に鞨鼓を付け、1人が鉦を持ち、向き合って踊り、近くに「オモガネ」が1名付く。その周りに8名程の「脇打ち」が半円形に並び、離れた所に幟持ちが並ぶ。花笠は、中踊りは3本の菊花、側打ちは3本の桔梗花を付け、主鉦は大菊花に3本の桔梗花を付け、根本に切れ込みを入れた色紙の「房」を付ける。中踊りの一人と側打ちは鞨鼓を付ける。笠の前面2/3には幕布が付き、その柄は黒白の縦縞である。着物は、中踊りは七分丈の浴衣、主鉦と側打ちは車輪と流水紋の着物。笛手は普通の笠を被る。鳴り物は笛、鞨鼓、鉦。

〔紐差〕8月15日に実施。踊りはBタイプで、2人の「中打ち」は1人が腰前に鞨鼓を付け、1人が鉦を持ち、向き合って踊る(但し踊り始めと終わりだけは4人で踊る)。後ろに踊子と同じ装束で鞨鼓と鉦のどちらかを付けた(持った)数名の「外打ち」が並び、離れた所に幟持ちが並ぶ。踊子は短い鞨鼓を付けて花笠を被る。中打ちが被る花笠は3本の菊花、外打ちは3本の桔梗花で、花同士には糸が張ってある。根本に切れ込みを並べて入れた色紙「房」を付ける。笠の前面2/3に幕布が付き、その柄は上から赤青白黄黒の横ストライプである。踊子の衣装は縦筋柄の着物。外打ちは紺の細かいチェック柄の着物である。鳴り物は笛、鞨鼓、鉦。

〔根獅子〕8月15日に実施。踊りはBタイプで、2人の「踊り手」は1人が腰前に鞨鼓を付け、1人が鉦を持ち、向き合って踊る。周囲を半円形に囲む十数名の「外打ち」は小太鼓(肩から下げる)、笛、鉦を持つが踊らない。離れた所に幟持ちが並ぶ。踊子の花笠は3本の菊花、外打ちの花笠は3本の桔梗花で、花の間を三段の糸で繋ぎ、前後方向にも糸を張って支える。根本には切れ込みを並べて入れた銀紙「房」を付ける。花笠の前面には幕布があるが、常時巻き上げられている。踊子も周囲の者も思い思いの柄の浴衣を着る。鳴り物は笛、鞨鼓、鉦。

〔中津良〕8月15日に実施。踊りはCタイプで、腰前に鞨鼓を付けた「中打ち」2人が向き合って踊る。左右に同じ装束で鞨鼓を付けた「ぐるりうち」が3人ずつの列で並ぶ。踊子が被る花笠は、中央に赤と黄色の菊花が束ねた形で付き、直行する横方向にも花を挿す。根本には御幣のような赤と黄の切り紙「房」を多数付ける。笠の前面2/3に幕布が付き、踊子の幕の柄は青と赤の縦ストライプ(間に白線を挟む)で、側打の幕の柄は水色と赤の縦ストライプ(間に白線を挟む)である。踊子や側打の衣装は白地に紺柄の帷子で白い短パンを履く。鉦打ちは白い着物で笠をつけない。鳴り物は笛、鞨鼓、鉦。

〔津吉〕8月15日に実施。踊りはCタイプで、腰前に鞨鼓を付けた「中打ち」2人が向かい合って踊り、周囲に半円形に鞨鼓を付けた5人の「こっぱ」が並ぶ。踊子の花笠は中央に花が5本扇状に付き、直行する横方向に木を挿して線を張り、根本には御幣のような切り紙「房」を付ける。笠の前面2/3に幕布が付き、幕の柄は赤青白の縦ストライプである。踊り手や側打ちの衣装は白地に紺柄の七部丈の着物で白い短パンを履く。鉦打は踊子達より若干簡素な鳥追笠の花笠を被り、白地に紺模様の着物を着る。笛手は普通の菅笠を被る。鳴り物は笛、大太鼓、鞨鼓、鉦。

〔大志々伎〕8月14日実施。踊りはCタイプで、腰前に締太鼓を付けた「中ひき」が2人向き合って踊り、半円形に囲むように同じ装束で鞨鼓を付けた「こっぱかき」5人が並ぶ。踊り子の花笠は、大菊花を4本の桔梗花で囲み、根本には細く切った御幣のような切り紙の「房」を付ける。笠の前面2/3に幕布が付き、幕は青地に稲穂の絵が描かれている。踊子の衣装は白地に紺柄の着物。鉦打は着物を着て普通の笠を被る。鳴り物は笛、鞨鼓、鉦。

〔野子〕8月11日と14日に実施。踊りはCタイプで、締太鼓を付けた「中ひき」2人が向き合って踊り、半円形に囲むように同じ装束で鞨鼓を付けた「こっぱかき」5人が並ぶ。花笠は大菊花を4本の桔梗花で囲み、根本には御幣のような切り紙「房」を付ける。笠の前面2/3に幕布が付き、中ひきの幕は紫地に稲穂の絵、こっぱかきの幕は青地に稲穂の絵が描かれている。踊子や側打の衣装は白地に紺柄の七部丈の着物。鉦打は着物を着て笠を被らない。鳴り物は笛、鞨鼓、鉦。

ジャンガラの起源については江戸時代に成立した『三光譜録』五六に次のような記述がある。

「大將采女の乗たる船沖に残りたれ共、對州より順風に來りし事なれば、本國に帰ることも能はすして波多に落行かんと西風に帆を揚げ逃げけるが、潮風に引れて平戸の横瀬迄流れける。折節平戸には夥敷幟を立て鉦鼓を叩き、出陣の體を見て叶ふまじと、塩俵と云ふ處に大將采女が船は乗捨て、有馬殿を指て落行くを、籠手田が家人共是を落人とて追掛け、琵琶石峠にて主從七人ともに討死し、采女が首は平戸へこそは送りける。(采女が塚今に在る所を對馬塔と云ふ。采女討死は七月十八日也。叉平戸浦に幟多かりしはジヤンクワラとて風止の祭り七郎宮にて踊を津吉下方平戸より初て催す吉例也。今に不絶)

この記述の戦いは、対馬を治める戦国大名・宗氏が元亀3年(1572)に日高氏が支配していた壱岐に侵攻したのに対し、平戸松浦氏が日高氏を支援して宗氏を撃退した戦いだが、壱岐から逃れた宗氏の大将の船が平戸に漂着した所、多くの幟と鉦鼓が鳴らされているのを見て逃走し討たれたという話になっている。この故事から平戸で幟を多く立てたジャンガラという祭を行うのが吉例となっているとあるが、そもそもこの事件が起きた元亀3年には既にジャンガラのように幟を立て鉦鼓を鳴らす行事が行われていた訳で、この事件がジャンガラの起源という事にはならない。また『壺陽録』にも同じ出来事について「平戸浦に幟多かりしはジャンガラとて風留の祭、七郎宮にて踊りを津吉、下方、平戸より初催す吉例となり今に不絶」という記述が見られる。

次に確実にジャンガラが行われた事を示す記録としては、イギリス商館員が記した『セーリス日本渡航記』の1613年8月23日の項がある。

「今日で大祭が終りを告げる。舞踊隊の三隊が旗を持って市中を上下した。彼らの音楽は太鼓と鑵鼓で、その音に合わせて偉い人の家の戸口ごとに踊る。また塔や墓の所でもみな踊る。」

 この文章が書かれた新暦の8月23日は旧暦の7月にあたるため、盆の行事だと推測されるが、その時に平戸の町には三つの踊りの隊が来ている事と、その踊りは楽器として太鼓と鑵鼓を有している事が確認できる。この楽器の特徴はまさにジャンガラだが、一方でこんにち平戸島各地に継承されているジャンガラで奏じられている横笛が無い点には留意する必要がある。なお19世紀に記された『甲子夜話』にも「農夫隊をなす事三組なり。一は志々伎村、一は宝亀村、一は平戸村なり」とあり、その頃も平戸島の大下組(中津良、津吉、志々伎、野子)、下組(宝亀、紐差)、城下組(平戸、中野)からそれぞれジャンガラの組が平戸に出張ってきていた事が分かるが、『セーリス日本渡航記』の記述はそれが江戸時代初期まで遡って行われていた事を示している。

なぜ島内のジャンガラが平戸に上るのかについては、平戸地域を統治する藩主・松浦家に披露するためというのが一番分かりやすい解釈になるが、それを考えるためには、まずジャンガラという芸能行事は何のため行われたのかを理解する必要がある。例えばジャンガラがどの宗教に関係する行事か考えた時、実はどの宗教の行事でも無い事に気付く。確かに後述するように踊りは鉦を叩いて踊る念仏踊りという仏教芸能に由来する部分がある。『セーリス日本渡航記』の記述には墓でも踊るとあり、大根坂のジャンガラは新仏(三回忌くらいまで)の家や墓でも行われるが、必ずしも供養のためだけに踊られる訳ではない。また寺院以外に神社や公共施設でも踊られ、希望する家でも踊られ、最近はカトリック教会で踊られる(宝亀など)。ジャンガラが踊る対象は地域内で住民が祀る信仰対象や公共施設全般なのである。

本来そのような信仰対象を祀るのは、その信仰に関係した専業宗教者か信者に限られていた。というのも信仰対象は基本的にその信仰に関係する者が祭祀権を持つからである。しかしジャンガラや須古踊りなどの祭礼行事は、宗教者・団体の祭祀権の枠組に関係なく、それを越えた形で一般民衆が実施する祭祀行為であり、そこに民衆が祭祀権を持つ祭祀(民衆祭祀)という捉え方ができる。

祭には宗教面のみに止まらず政治面、経済面など様々な側面があるが、そのうち経済面を見ると、祭祀権には祭祀を行う事でそれを信仰する住民などから祭祀料を得る権利が含まれる。通常、住民を構成する一般民衆は、居住域の信仰対象の祭祀を専業宗教者に委ね、祭祀料を支払う側にある。しかし民衆祭祀では民衆が芸能の組を組織する事によって臨時的にせよ祭祀権を有する形になるので、民衆は祭祀料を得る側になり、同時に自らが払う祭祀料は節約される事にもなる。

平戸に島内のジャンガラが上る第一の理由は、平戸松浦氏が16世紀に入ると平戸島の支配を盤石化し、戦国大名としての政治権力を確立した事で、大名としての松浦氏に芸能を披露する事が政治的なセレモニーとして意味を持ったからだと考えられる。それゆえ明治時代になって松浦家が平戸の支配者では無くなった時点でジャンガラの平戸上りも無くなるのだが、それとは別に経済的側面も大きかったものと思われる。16世紀中期から17世紀前期にかけての平戸は、中国・ポルトガル・オランダとの貿易活動によって大きな経済的利益を得ていた。この港市平戸の富を、ジャンガラの披露に対する祭祀料の形で周辺地域に環流させる事は、格差是正の面で平戸松浦氏の領国経営に利するあり方だったと思われる。この構造は平戸が城下町になった後も継続していく。

次にジャンガラという芸能の起源について考察する。『史都平戸』(1962年)には「古くから志々伎に田楽の様なものがあったが、これが朝鮮の夫れとよく似ている所から、志々伎神社の祭神十城別王の征韓の頃に縁由するのではないかとも云う」と、朝鮮半島由来の田楽のような踊りが古代に伝わったものだとしているが、確かに朝鮮半島には、ジャンガラのように腹に付けた太鼓を叩きながら踊る芸能(サムルノリなど)が伝わる。一方『平戸市史(民俗編)』(1998年)には、古代朝鮮起源説と共に「平戸におけるジャンガラの起源は明らかではないが、一般には式内社志々伎神社の神田領民が行った毎年の豊年祈願に田楽が加えられ、その後に仏教の影響を受けて念仏鉦が加わったと考えられる」と、田楽と念仏鉦が合体したものだとしている。

この田楽と念仏鉦が合体したというあり方をよく残すのが的山大島・大根坂のジャンガラである。大根坂のジャンガラは鉦打ち2名が横に並び、花笠の踊り手が縦に3人並んで踊る形だが、単純に見ると念仏踊りと田楽という別種の芸能を並列で行っている事が分かる。このように大根坂のジャンガラは、ジャンガラという芸能の原初形態を考える上で重要な芸能なのだが、指定ランクでは唯一県指定に留まっているのは残念な事である。

ジャンガラの原形を構成する芸能の一つである田楽(でんがく)は、平安時代中期に成立した楽と踊りなどで構成された芸能で、田植え前に豊作を祈る田遊びから発達したとされるが、ジャンガラの歌詞に「ホーナーゴー、ホーミーデ」とあるのは「穂長う穂実出」という稲の成長を祈願する文句であるのは田楽に由来する。田楽の装束的特徴は華美な風流笠を被り、腰鼓を付けているが、「びんざさら」を用いた芸を行う場合もある。中世の有力社寺の中には田楽法師という田楽を行う専門の芸能者を抱える所があったが、地域にも田楽法師の指導のもと田楽の踊りや芸を伝承する人がいたとされる。平戸地方にジャンガラが普及する以前、田楽法師や地域の田楽継承者がいたのかは今のところ不明だが、先行して田楽が行われていた可能性は大きい。

もう一方の念仏について、踊りを伴わない形で鉦の音に合わせて念仏を詠唱する事は、江戸時代前期頃には平戸島各地で行われていた。平戸島の稗田(寛文7・1667)、池原(寛文10・1670)、高麗町(貞享元・1684)、中の原(元禄7・1694)、稗田(享保16・1731)、鍛冶町(年代不明)などの三界萬霊塔では碑文から念仏講中によって建立された事が確認でき、これらの地区では念仏講が組織され、念仏が詠唱されていた事が分かる。また昭和初期以降も、的山大島大根坂、度島飯盛、同中部、同本村、平戸島木場、同根獅子には念仏講が存在したり、過去存在した事が聞き取り等で確認されている。こうした念仏詠唱活動が、ジャンガラの存在が確認されている江戸時代初期より前に遡って存在するのかについては分かっていない。一方、鉦を叩いて踊りながら念仏を唱える踊り念仏については、全国的には鎌倉時代には盛んになっている事が、『一遍上人絵伝』の絵などからも確認できる。この踊り念仏は、念仏を唱えるという宗教活動に伴う作法だが、その後踊りを楽しむ事が目的化する事で芸能化していく。これが念仏踊りでジャンガラのもう一つの起源であるが、目下の所、平戸地方でジャンガラに先行する形で念仏踊りが行われていた事を確認出来る資料は無い。その事も含めて、田楽と念仏踊りが一緒に行われる当初のジャンガラの形態(Aタイプ)が何時頃成立したのかも分からないが、相方の芸能が平安、鎌倉時代に成立した事を考えると、早くて室町時代、恐らくは16世紀後期~17世紀初頭に成立した事が想定される(そう考える理由は後述する)。

 肥前地方の民俗芸能に詳しい荒谷義樹氏の研究によると、江戸時代初期にはこの当初のスタイルのジャンガラが平戸島全域でも行われていたと推測されるが、その後平戸島のものは変化していき、もとの形態のジャンガラは大根坂だけに伝承されたようだ。この変化について検証するために、文政4年(1821)以降に元平戸藩主・松浦静山が著した『甲子夜話』(三編巻之一六)のジャンガラの記述を見てみよう。

「又「ジャングワラ」と呼んで田舎の踊をなす事例年七月一八日なり。其体を云ふに農夫隊をなす事三組なり。一は志々伎村、一は宝亀村、一は平戸村なり。一組に昇旗を指す事、二十本、或は十五本、其組々の絞(しるし)あり。又農夫十五人、或は廿人、各鞨鼓をつけて檛つ。其中鉦を撃者あり。笛を吹く者あり。皆菅笠を戴き、足半を着く。鼓を檛つ者は笠頭に自作の紙花をさし、又垂吊(たれぎぬ)あり。一組、外に環囲して、中に鉦鼓相対して舞うあり。或は外半月形に陳(なら)び其中二人闘鶏の如く舞うあり。又は外円形にして中に鞨鼓一人舞ふあり。皆田夫にして其鄙野見つべし。

(略)その舞装を云はんに、まづ鼓と云には野夫が自ら作れる胴にして樹枝の大なるを穿(ほり)通して造り、皮も亦山猟の鹿皮を刹て、いまだ裡に血のつきたる或は刀痕より表毛の見へし抔、調糸(しらべ)は白芋を以て、亦自ら為(つく)れり。其鄙朴察すべし。鉦は、世に謂ふ道信者僧の、路頭を撃歩ものに、緒もなく、手に携たり。舞手より諸人に至て皆紺の無紋、地荒き帷子に、尺は膝の露るるばかりなるにて足脛顕れ、賤しき体なり。」

 このなかでまず踊りについての記述に注目すると「外に環囲して、中に鉦鼓相対して舞う」というのがBタイプ(下組)、「外半月形に陳び其中二人闘鶏の如く舞う」というのがCタイプ(大下組)、「外円形にして中に鞨鼓一人舞ふ」というのがDタイプ(城下組)にあたり、踊り方については三組(三地区)でそれぞれ今日の踊りの形が存在していて、大根坂に伝わるAタイプの踊りが既に更新されている事が分かる。しかし衣装について見ると「紺の無紋、地荒き帷子」という地味な装束で、鞨鼓も木を削って胴を作り猟で取った鹿の皮を張るという自家製の粗末なものを使う「賤しき体」で、こちらは大根坂のジャンガラに近い姿で残している。また鳴り物に笛があるのは大根坂のジャンガラには無い要素である。こうした状況が19世紀初頭段階の平戸島のジャンガラの様相と思われるが、『甲子夜話』には近年のジャンガラの動向についても次のような記述がある。

「近頃肥州の話に、かの三村の中に富農有りて、両三人相謀り、はるかに浪華に註文し、腰鼓も、尋常なる世の巴紋を出せる体好き物と更(あらた)め、衣類も花美に出立て、七月嘉例の庭に列したり。有司は心もつかざるが、肥州は意に協(かな)はず。事畢て、旧貫に仍らず、又農舞の容に非ず迚(とて)、彼輩は退けたりと。予此ことを聞き、真に肥州の令、忠孝の旨を得たりと、賞歎したり。」

つまり『甲子夜話』執筆時期の少し前に、地区の富農が主導して大坂に注文してジャンガラの腰鼓を格好良く、衣類も華美にしようとした時期があったが、肥州(現藩主・松浦熈)は本来の農舞の姿ではないと退け、隠居の静山もそれを支持した事が分かる。

この文章から、民衆はジャンガラに華美化を求めていたが、藩主達は古態の維持を望んで阻止した事が分かる。しかしその一方で、平戸藩主もジャンガラの変化を積極的に支援した事を窺わせる史料が『紐差村郷土誌』に掲載されている。

「右者文政八酉三月ニ江戸ニ指被越四月ヨリ於本店稽古相初マリ十月ニ就成仕リ、我々下被仰付長村藤太郎様へ御付下り申候将又十二月十日我々一代脇間被仰付候事十二月

十一日四ツ時ニ御上屋敷ニ到越十二日ニ江戸出立候事」

 この史料は紐差の田舞家に継承されたものだが、観中公の指示で下組のジャンガラ関係者が文政8年(1825)に江戸に上り、笛や踊りの所作を稽古した事が記されている。ここで笛の稽古とあるのは江戸の囃笛を伝習した事だと思われる(荒谷氏の指摘による)。また衣装や花笠もこの時期に華美化した事が考えられる。

こうした華美化の極致にあるのが根獅子のジャンガラである。このジャンガラは外打ちが無い代わりに、笛手なども全て花笠を被って外打ち化していて、笠の花も特に華美になっている。こうした特徴から根獅子のジャンガラは比較的遅い時期(恐らくは幕末期頃)に興った事が考えられる。

先に平戸地域のジャンガラは16世紀後期~17世紀初頭に成立した可能性を指摘したが、その根拠は分布にある。平戸地方のジャンガラはキリシタンの信仰が普及した度島、生月島、平戸島西岸地域をほぼ外した地域に分布している。この事実は、平戸島周辺にちょうどキリシタン信仰が普及・定着した時期にジャンガラが成立・伝播したものの、キリシタン信仰が定着した地域では、ジャンガラを異教に関わる祭事として導入しなかったために、こうした分布になった事が考えられる。唯一の例外が平成4年までかくれキリシタン信仰組織が維持されていた根獅子だが、前述したように根獅子のジャンガラの要素が新しい事を考えると、根獅子への導入時期は禁教が進んでかなり経った時期(恐らくは幕末期)である事が推測されるのである。

 次は須古踊りである。須古踊りは、着物に笠を被った男性の踊り手が輪を作って並び、扇子や笛を持ってゆっくりと舞うように踊る芸能である。平戸市内では的山大島的山、同西宇戸(現在は廃絶)、同神浦(東神浦と西神浦が毎年交互に行事を行う)、度島飯盛、同中部、同本村、平戸島獅子、生月島舘浦、同里(現在は廃絶)、田平町以善(現在は廃絶)に伝承されていた。須古踊りはもともと佐賀平野西部にあった須古に伝わる世祝芸能とされ、天正8年(1574)に須古城が龍造寺隆信の攻撃を受けて落城した際、落武者が各地に落ちのびて踊りを伝えたとされる。この踊りの起源も念仏踊りとされ、江戸時代に入って芸能化した段階で伝わったと考えられている。しかし私は安土・桃山時代に流行した風流踊りが起源ではないかと考えている。『豊国祭礼図屏風』や『花下遊楽図屏風』には京都の町中で大勢の人々が踊る様子が描かれている。風流踊りもその起源は念仏踊りに求められるのだが、風流踊りも須古踊り同様、鉦や太鼓、笛などに合わせて歌い、円を描いて集団で踊るのが特徴である。

平戸市域の須古踊りの史料初見は延享2年(1745)の本山神社文書で、「的山踊打始メ其後ニ神野浦在浦踊おどり申候 只今ニ至」と記されている。また須古踊りの分布はジャンガラとは逆に、キリシタン信仰が広まった旧籠手田・一部領に多く分布している事から、平戸藩でキリシタンの禁教が一段落した18世紀以降に普及したと推測される。

 

 平戸市域の須古踊りの面白い所は、伝承された地区毎に踊る目的が異なる事で、この事もこの踊りが特定の宗教や信仰に関係する形で導入されたのでは無く、芸能化した段階で導入された事を示している。

的山大島の的山、神浦、西宇戸(現在は廃絶)の須古踊りは8月14日と15日に行われ、寺社祠堂や公共施設、踊り組織への功労者の家などで踊る役踊りの他に、カイニワといい依頼された新仏(三回忌まで)の家や墓で踊る形がある。こうした状況から、大島の須古踊りは本来の踊り念仏のあり方をよく残しているといった解釈をされる場合もあったが、実際には芸能化した踊りが江戸時代の中頃に伝播し、目的として新仏の供養が選ばれたに過ぎない。特徴的な要素として、神浦の須古踊りで15日の夜に行われる「デタラメ踊り」がある。波止場で精霊船を送る役踊りをした後、最後の集会所に向かう前に、特別な唄を唄いながらサヤン神様の所に行き、神前でデタラメ踊りを行う。これは行事の終わりに型を崩す事で、聖なる時間から日常に戻るための移行儀礼と捉えられる。

 度島の本村、中部、三免の3地区で行われる盆ごうれい(御盆恩礼、荒谷氏より教示)は、以前は旧暦7月16日に行われていたが、現在は新暦8月15日に行われている(度島では8月13、14日が盆)。大幟と須古踊り、様々な踊りや流儀が行列し、寺社や公共施設、功労者などの家を巡って披露が行われる。大幟は松浦市の星鹿ジャンガラ、鷹島の島踊りなどでも見られる要素だが、伝播状況が不明で、瀬戸内海方面からの伝播の可能性もある(荒谷氏談)。また一緒に行われている綾踊り、奴踊り、娘踊りなどは幕末以降に伝播した比較的新しい芸能である。

生月島舘浦の須古踊りは8月16日に行われるが(今日では近い日曜日)、元々キリシタンの信仰を捨てさせる目的で始まったとされる。大名行列に倣った行列が集落内を巡り寺社や公共機関で踊る他、依頼があった家でも屋祓いの目的で踊る(ブサタバライ)。奉納踊りでは最初アビャゴ(シンブツ)が口上を言うが、シンブツは念仏踊りの指導者である新発意(シンボチ)が語源で、新発意と同様笹竹を担ぐ、須古踊りの起源に念仏踊りがある事を裏付ける要素である。また演技の槍、挟箱、行列の鉄砲持ちなどは佐賀県下の行列浮立に見られる要素である。一方、行列にいる稚児の花笠は田楽由来の要素である。笠鉾は長崎の「おくんち」では演目として登場するが、本来は神の依代だった祭具で、舘浦の須古踊りでは観覧者が下をくぐったりしているので、依代本来の機能を残している所もあるが、「豊国祭礼図屏風」の風流踊りにも傘鉾が登場するので、風流踊りの付帯要素としてあったものを継承した可能性もある。

 平戸島西岸の獅子には8月15日に須古踊りが行われている。近年は旧小学校のグラウンドに設けた舞台で行われているが、『九州とその周辺における島の芸能の研究』によると、かつては大名行列に倣った行列が集落内を巡り、神社や学校、総代宅で踊られていた。演技は「鳥毛の槍」「枠振り」「棒使い」「高い山」と「モッショ方」と呼ばれる須古踊りで、構成は浮立的である。須古踊りは花嫁装束に笹竹を担いだ女形を中心に、周囲に4人の中踊りが囲み、さらに外側に10人程の花笠を被り、割竹を持った男児のトクラゲが囲む。トクラゲは割竹を持つ事から田楽由来の要素と思われる。

なお生月島では農村集落の元触でもかつて須古踊りが行われていたが、日照りが続いた時、雨乞いのために臨時に行われていたという。また『長崎の民俗芸能』によると、市内本土の田平町以善でも雨乞いの時に須古踊りが大正時代頃には行われていて、天保年間に近接する江迎町長坂から伝授されたものだという。

 平戸市域の民俗芸能で最も新しい時期に導入されたのは、流儀・花杖などと呼ばれる武技芸能である。青年男性が行うのが棒術・流儀で、少年が行うのが花杖である。武技芸能の導入時期がよく分かるのは田平町の荻田に伝わる荻田浮立の棒術である。浮立は佐賀県、長崎県下に分布する派手な衣装を着て踊る芸能で、多様な様々な演目や装束があるが、浮立も、ジャンガラや須古踊りとともに風流芸能に包括される。平戸市内で浮立という名称が付いた行事は、荻田の三柱神社の秋の大祭で3年に一度行われる荻田浮立だけである。なお大祭では神楽、相撲、浮立が交代で行われている。

 10月11日の祭日に、浮立の行列が三柱神社の境内に練り込んで、棒術、綾とり、ササラシキ、獅子舞が行われる。音曲は笛、大太鼓、鉦(棒から吊り下げて使う)である。そのうちササラは田楽由来の楽器であり、獅子舞も専門の田楽集団が芸能としてよく演じられたものとされる(荒谷氏談)。荻田浮立は嘉永3年(1850)に、農村慰安のために各地で行われていた浮立を伝習して始めたとされる。

 荻田浮立の棒術の由来については、荻田地区に残る「天下新無相流由来之碑」の碑文が伝えている。

「往古常陸ノ国神之宮内亟棒ノ術捕手ノ術ヲ創メ 天下新無相流ト云フ其ノ 後十三伝シテ萩尾小平太ニ至ル小平太之ヲ山川東二平ニ伝フ東二平此ノ術ノ奥意ヲ究メ以テ門人ニ授ク因テ同門及ビ門人ノ姓名ヲ誌シテ不朽ニ伝フ 明治二十九年十二月建立」

 この碑文の建立時期から、荻田浮立の棒術は明治20年代頃に始まった事が推測されている。なお大島前平の流儀にも明治26年(1893)の天下親當流の記録があり、平戸地域の棒術(流儀)の普及が概ね明治中期であった事を窺わせる(荒谷氏の教示による)。

流儀には棒のみで行う「表」と、他の武器が加わる「裏」があり、また相手を組み伏せる演技もある。また武技芸能は、他の芸能と一緒に行動する場合が多く、的山大島の的山の流儀は須古踊りと一緒に、同大根坂の流儀は単独で、花杖はジャンガラと一緒に 同前平の流儀は元は西宇戸の須古踊りと一緒に(現在は単独)、度島の飯盛、中部、本村の棒術は幟、須古踊りなどと一緒に、生月島舘浦の花杖は須古踊りと一緒に、平戸島志々伎と野子の花杖はジャンガラと一緒に行動している。恐らくは武技芸能の導入時期が後発のため、先発の芸能に附属する形で演じるようになったのであろう。

 

2021/08/25




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