長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸市再考No.017・平戸藩の網組捕鯨

平戸藩の網組捕鯨

 

前回の平戸系突組の項では、延宝5年(1677)に紀州太地浦で発明された網掛突取法が西海漁場にも急速に普及するが、平戸系突組主はその導入を果たす事無く17世紀末に突組の活動を終了した事を述べた。しかし網掛突取法の普及で最も利益を得たのは平戸藩であり、領内で操業する網組から得られる税その他の収入が、幕末期に至るまで藩財政と藩内経済を支えている。

網掛突取法は延宝5年(1677)紀州太地浦の和田(太地)角右衛門頼治が発明したとされる。これについては正徳3年(1713)「覚」に「三拾七年前先各(角)右衛門御鯨網仕初申候処」とある事が根拠となっているが、「太地浦鯨方」にも「延宝五丁巳年和田角右衛門頼治鯨網工風始候而」とあり、また西海漁場の記録である享保5年(1720)制作の『西海鯨鯢記』(以下『鯨鯢記』)にも「今綱(※網)組ニ成ル事ハ延宝ノ初紀州太池ニテ始テ仕出シ土佐ニ移リ五嶋魚目ニテ座頭小鯨多ク取ル」とあり、文政11年(1828)の大村藩『見聞集』にも「網組之始、延宝五丁巳年熊野太地浦に於て太地角右衛門工夫す」とある事などから確かな事実だと思われる。

網掛突取法が西海漁場に伝わった経緯は、既に筆者が『島の館だより』11号や『大村市史』第4巻(近世編)に詳しく紹介しているが、その概要を述べると延宝6年(1678)に深澤儀太夫勝幸が五島魚目浦(有川湾)で太地の網掛突取法導入の情報を伝え聞き同地のイルカ断切網を転用する形で試行し、貞享元年(1684)に深澤儀太夫勝幸が太地から技術を導入して魚目浦で本格操業に至るという二段階で導入されたと考えられる。また『海鰌図解大成』(以下『大成』)には「其後深沢儀平次 夜な夜な寝て腹の上にて網の立様を工夫して 延宝八年魚税をまして自餘の十二組を退けて海鰌の税を増して 我一人海鰌組の主たらん事を平戸府の家司に願ふ 家司等聴達して求めに應す 是海鰌網組のはしめ也」とあり、大村藩の『見聞集』にも「貞享之始深沢儀太夫登坂して、笹川家に止宿して網組の業を試ミんため、古座屋三代次郎右衛門実名重盈を同伴して、熊野太地浦角右衛門網組の趣意を見聞し帰国之上、壱岐国勝本浦に於て深沢家網組を以鯨を漁す、是九州鯨組の始なり」とある事から、壱岐でもほぼ同じ時期に深澤組によって網掛突取法の導入が図られたと思われる。深澤組では二代目当主・深澤儀太夫勝幸の他、勝幸の次男(かつ初代勝清の養女の婿)の深澤儀平次重昌と、勝幸の娘婿の深澤與五郎(田島助次郎)幸可が網組の経営に従事している。

一方有川湾では、魚目浦(富江藩領)の対岸にある有川浦(五島藩領)で貞享元年(1684)に、深澤組の操業に対抗する形で宇久島を本拠地とする山田茂兵衛が網掛突取法の操業を始めている(「有川魚目間之海境帳」)。有川浦ではその後、地元の江口甚右衛門が指導する形で網組の操業が行われている。

五島列島北部にある小値賀島(平戸藩領)では、『重利一世年代記』(以下『年代記』)によると、貞享2年(1685)に地元の小田伝次兵衛が下柳田浦で突組の操業を行い、小田組(六郎右衛門)の突組は元禄元/2年漁期(1688~89)から同6/7年漁期(1693~94)に、冬浦を壱岐瀬戸浦で、春浦を対馬鹿見浦で操業している。そして『年代記』元禄13年(1700)の項には「鯨組 津和崎ニ鯨網中(仲)間組始リ」とあり、中通島北端の津和崎(平戸領)で網組の操業を行っている事が分かるが、「中間(仲間)」とある事から共同経営の形を取っている事が分かり、その相手については元禄14年(1701)の項に「津和崎浦 網組 田島助次郎 相合」とある事から田島助次郎(深澤與五郎幸可)である事が分かる。これらの記述から小田伝次兵衛重利の小田組は、深澤組の技術提供を受けて平戸藩内の鯨組で初めて網掛突取法を導入した事が分かる。しかし元禄15年(1702)には津和崎の網組は田島助次郎のみの経営となり、宝永2年(1705)3月になるとこの網組は津和崎を撤収して壱岐勝本浦に移動している。

一方、宝永2/3年漁期(1705~06)には、小田伝次兵衛が1/2、泉州佐野の桶屋林右衛門と平戸的山大島の井元弥七左衛門が各々1/4を出資する形で、小値賀島の潮井場浦にて網組の操業を始めているが、宝永4/5年漁期(1707~08) ~同7/8年漁期(1710~11)には出資が小田家・井元家半々の形になっている。この操業は井元組が網掛突取法を習得する契機になったと思われるが、正徳元/2年漁期(1711~12)になると、これまでの操業で資本を蓄積したためか小田家の単独経営となり、冬浦には小値賀島潮井場で、春浦には津吉浦(前津吉)、生月島、潮井場に分かれる形で操業している(各々に網一結を分遣する形か)。翌正徳2/3年漁期(1712~13)には生月島にも冬浦から別途網組を派遣している。さらに正徳3/4年漁期(1713~14)から享保元/2年(1716~17)には、魚目浦(有川湾)と小値賀島でそれぞれ網組を操業させている。その後享保3/4年漁期(1718~19)までは一組が冬浦を小値賀島で、春浦には三分割して各所に派遣している。

平戸島の北に浮かぶ的山大島を本拠地とする井元組は、下記の「木曽氏系図」によると、井元弥七左衛門(三代目)義信が捕鯨業を始めたとされる。

「祖父大嶋政務役弥七左衛門代、幡州横山五兵衛来、大嶋前海ハ鯨魚道ニ付組仕出度出願ニ及。然ルニ人家少ク浦疲弊ニ付差免、寛永二年乙丑冬初而組仕出、寛永六年頃より不漁続キニ相成其后相止メ。然ル處寛文元年ニ至り 肥前守鎮信公ヨリ先年浦人家引立てし為メ祖父弥七左エ門差免組仕出候義ニ付如何ら願相働キ組仕出方世話致候様被仰付御受申上、松右エ門又右エ門両弟へ世話掛り申付、是より網組トナル。組細工場之義ハ浦底渚より岡平地一園被下、組入用之家作致時々出浮指揮致候。重トモ年々漁事有之住宅より往来萬事不都合ニ付、右場所渚より築立居宅ヲ構、武勢ノ墓所ハ拝領乃□嶋ニ付置神原八右エ門江仕護申付。

 寛文四年甲辰八月移轉致年々組仕出時、鯨捌ハ西止り浦ト定メ、然ルニ漁事有之ニ随而家蔵建築致シ組細工場狭ク相成、依而東之濱邊ヲ築立細工場是ヘ直ス。就中中ノ山下道より石垣ヲ築立家作茶室ヲ設、鯨遠見所ト致居宅其外家蔵成就申上。鎮信公鯨御見物方御成相成丸鯨西止リ浦ニテ御覧被遊御歓心、斜畢而遠見所へと御成ニ相成茶湯催し差上ケ、此節御自筆之御軸物拝領相成段其後御沙汰ニ相成(後略)」

 この記述によると、井元組が網掛突取法を導入したのは寛文元年(1661)とされているが、この時期には西海はおろか紀州でも網掛突取法は行われていない。この史料が系図という後世に編集されたものである事を勘案すると、この記述の信憑性は低いと言わざるを得ず、既に記したように井元組が網掛突取法の技術導入を行ったのは宝永2/3年漁期(1705~06)から同7/8年漁期(1710~11)にかけての小値賀島での小田組との網組の共同操業の時だと考えられる。

深澤組は五島有川湾や壱岐以外に、呼子小川島や長門角島でも網組の操業を行い、それらの地域に網掛突取法を伝えているが、彼らが最も重視したのは壱岐の漁場だった。『鯨鯢記』にも「網組ハ利ヲ得歟元成事不替、是モ未如何成行シ。壹岐國而巳鯨徃来サヘアラハ断ヘカラス、此所ヲ除キテ可行海路ナシ、永代不易ノ地ナラン」と、壱岐漁場の優位性が記されている。深澤組の壱岐出漁は寛文年間の突組の出漁まで遡るが、既に紹介したように『大成』には、深澤儀平次が延宝8年(1680)に壱岐で他の突組を退けて網組の操業を行った事が、『見聞集』には深澤儀太夫(勝幸)が貞享の始めに勝本浦で網組を操業した事が記されている。そして宝永2年(1705)には、壱岐の二大漁場である瀬戸(前目)浦と勝本浦の両方に深澤儀平次組と田島助次郎(深澤與五郎)組が出漁した事が、「深澤旧記」に掲載された「漁場法度書の事」から確認できる。同文書は壱岐の両漁場で深澤両組が操業する際には、平戸藩の法度を守って騒ぎを起こさないよう大村藩が訓戒している内容である。

 壱岐の二大漁場を深澤組が独占する状況は、先述した『年代記』で宝永2年3月に田島助次郎組が五島津和崎から壱岐勝本に移動した事によって成立した事が分かるが、深澤儀平次組はそれ以前から瀬戸浦で操業していたものと思われる。この深澤網組の壱岐操業は享保年間初頭頃まで継続したと思われるが、元禄年間から享保年間前半にかけて、大村藩関係者が深澤家関係者から頻繁に借り入れを行っていることが大村家文書に残る借用証文から確認できる事から、壱岐を中心とした網組操業で深澤組が莫大な利益を上げたことが窺える。

壱岐を支配する平戸藩に取って、網掛突取法という新漁法に熟達した深澤組の操業は、一漁場を一網組に委ねる形なので管理がしやすく、安定した税収が得られる点では望ましいものだったが、出来るならば自藩の鯨組に壱岐漁場を任せたい意向があった事が推測される。享保2年から同11年(1726)の間に藩庁に提出されたとされる「真見塚氏上書」には、「去ル時分」瀬戸浦に平戸町人の山口屋助左衛門の入漁が許された時があり、壱岐本組(勝本浦操業の鯨組)を許されていた壱岐町人には不満があった事が述べられている。その文書への返書で藩中老の真見塚源七は、臨時の軍用金三千両の調達承諾を条件に、勝本浦の請浦の可能性があるとしている(『近世日本の対外関係と地域意識』)。平戸町人は元禄年間に突組の経営をやめているが、この史料に登場する山口屋助左衛門は網組の操業に関わった平戸町人である。現在、平戸城内に残る石灯籠は、享保3年(1718)に井元弥七左衛門と山口屋助左衛門によって各一基が奉納されていて、享保3年以前に前者が勝本浦に、後者が瀬戸浦に入漁していた状況を推測させ、先の「真見塚氏上書」の山口屋についての記述もそれを裏付ける。また『壱岐国続風土記』によると、山口屋助左衛門義長は享保10年(1725)に貴布禰大明神(瀬戸浦)に、享保11年(1726)に箱崎八幡宮に石灯籠を寄進し、享保12年(1727)には火災で焼失した瀬戸の辻太神宮の御殿・拝殿を寄進しており(「壱岐捕鯨業の成り立ちと土肥鯨組の繁栄」)、享保年間前期にも山口屋家が壱岐で鯨組を経営した可能性を窺わせる。また対馬西岸の廻浦で享保11年(1726)に小田勘左衛門・小田善左衛門が(捕鯨の)浦主となった時、鯨組の実質的な経営を山口屋助左エ門が行ったという記述もある(『対馬漁業史』)。また江戸時代中頃から鮪大敷網の漁場となっていた生月島松本にある享保11年(1726)建立の供養碑にも「平戸町 山口屋」の銘があり、山口屋家がこの頃始まったと思われる鮪大敷網の経営にも関与した事が窺える。さらに山口県の豊浦郡水産資料の享保19年(1734)「書替証文之事」に、長州肥中島戸両浦の鯨網代について享保20年(1735)の春浦から10年間の請浦(入漁)を山口屋助左エ門が島戸浦・肥中浦・和久浦の庄屋・年寄に願い出ている記述があり、条項に「掛取候鯨」とあることから網掛突取法を予定していた事が確認できる。

なお豊浦郡水産資料には、宝暦13年(1763)3月に長州島戸浦・肥中浦・湧浦の鯨網代に平戸浦の大井甚平が試験的に入漁する際の取り決め書き(覚)が存在する他、寛政2年(1790)に肥中の綿屋六郎左衛門らが平戸に赴き、鯨株を持ち、船や網を所有する森島傳左エ門・油屋彌八右エ門と共同操業についての協議を行っている。これらの史料から18世紀後半期になっても平戸町人の中に捕鯨と何らかの繋がりを持つ者がいた事が分かる。しかし享保末年以降は壱岐を始め平戸藩内の主要漁場の経営は、平戸領内各地で網組を経営する熟練の組主達に委ねられ、平戸町人の組は西海漁場の周縁にあたる長州漁場で辛うじて操業を続ける状況だったと思われる。

享保年間の壱岐漁場には、平戸領内各地の鯨組や壱岐在地人の共同経営組の参入が認められる。井元家文書には次のような記録が残る。

「 覚

一銀百拾五貫八百九拾目正、右者壱岐国勝本浦ニ而先納銀百六拾三貫目内、従去々戌之暮亥春迄勝本ニ而引揚候鯨三拾六本之運上銀四拾七貫百拾匁直ニ指引、残分御銀方江預り置候候所如件

 享保五年子五月十七日

  永石六左衛門/深江与五平/日高治左衛門/稲垣杢太夫/岩永吉六/末吉刑左衛門

 井元弥七左衛門殿                  (前田秀人氏翻刻)」

これによると的山大島の井元組は享保3/4年漁期(1718~19)に壱岐勝本で鯨36頭を捕獲しており、この時期には深澤組が勝本漁場から退出している事実が分かるが、享保5年(1720)秋に著された『鯨鯢記』には「(壱岐)勝本 網 弥七左衛門」とあり、享保4/5年漁期(1719~20)にも井元組が勝本浦に入漁している事が分かる。なお享保2年(1717)には井元弥七左衛門が神浦の天降神社に石灯籠を奉納しており、平戸城内に残る石灯籠も享保3年に井元弥七左衛門によって奉納されているが、こうした奉納活動は享保初期の井元組の壱岐操業を反映したものと思われる。この時期の井元家当主は5代目弥七左衛門定治である。

一方『年代記』によると、小値賀島の小田組は享保5年(1720)7月朔日に勝本浦の網組(三結組)操業の1/4の資本参加を平戸藩から仰せ付けられ、享保5/6年漁期(1720~21)には勝本浦に一結編成分を派遣している。享保6/7年漁期(1721~22)から同8/9年漁期(1723~24)にかけては小田組が勝本漁場に網組(三結組)を操業している他、小値賀島潮井場でも網組(六結組→三結組)を操業している。この勝本漁場の網組については小田組の単独操業か井元組との相合(共同経営)か不明だが、後述する享保7年の御用銀納入の割合を勘案すると、井元組との共同経営である可能性がある。なお享保9年(1724)には小田伝次兵衛重利が亡くなり『年代記』の記述が終わっているため、それ以降の小田組の操業については不明である。

一方、壱岐在地者による鯨組経営の開始も享保元年頃である事が想像される。勝本の能満寺(旧三光寺)の梵鐘には、正徳2年(1712)9月の奉納年とともに、右から土肥市兵衛、篠崎庄左衛門、小林藤兵衛、川谷久兵衛の名とともに「諸旦那男女平等」とあり、左端に田嶋助次郎の名がある。旦那とは寺の檀家で、彼らと共に寄進した4名は壱岐の住人と思われるが、その中に土肥市兵衛の名がある事が注目される。「土肥族記」には、二代目土肥市兵衛教睦が勝本において前目(瀬戸浦)鯨組を創始したとあるが、教睦は享和14年(享保14年・1729の誤りと思われる)に92歳で亡くなっている事から、梵鐘に名を連ねたのは二代目と思われる。前述したように田島助次郎(深澤與五郎)は宝永2年(1705)壱岐勝本浦に入漁している事から、梵鐘に名がみえる土肥市兵衛など4名は田嶋助次郎の網組操業に関係するなかで、網掛突取法の操業や網組の経営について学んだものと思われる。

瀬戸浦納屋場の北にある原山には同漁場の山見が置かれたとされるが、そこには享保2年(1717)に篠崎・許斐・布屋・土肥・土肥の諸氏によって鯨供養塔か建立されている。彼らは地元壱岐の有力者達で、恐らくは塔建立時に瀬戸漁場で網組の共同経営に当たった者達と考えられるが、その中には先に能満寺の梵鐘に名を連ねている土肥氏や篠崎氏も登場している。前述したように享保3/4年漁期(1718~19)には井元組が勝本浦で操業しているが、その操業を少し遡った時期である事から、享保元/2年漁期(1716~17)頃までの時期に、瀬戸浦に壱岐在地共同組が入漁し、勝本の方は平戸藩内の他の鯨組が入漁したものと思われる。また『鯨鯢記』にも瀬戸漁場について「網 所ノ者組出ス」と記されている事から、享保4/5年漁期(1719~20)には壱岐在地者の網組が入漁した事が分かる。また『大島村郷土誌』によると、享保7年(1722)に平戸藩が各地の鯨組に課した御用銀三千貫のうち、大島の井元組が千二百貫、小値賀島の小田組が八百貫、壱岐町人の宗像・斉藤・布屋・篠崎らが経営する鯨組が千貫を用立てたとされる事から、この時期の壱岐で井元・小田のもやい組(勝本浦)と、壱岐在地共同組(瀬戸浦)が操業していた事が窺える。さらに「御意済帳」享保11年(1726)正月16日の条には、壱岐在地者の長谷川杢左衛門、布屋清右衛門、許斐小左衛門、篠崎太郎左衛門、土井(肥)武左衛門(市兵衛の子)の5名が享保9年(1724)に藩に御用銀を納めた功により、町年寄格を与えられているが(『近世日本の対外関係と地域意識』)、彼らは捕鯨で得た利益で御用銀を納入したと思われる。なお『壱岐郷土史』にも享保12~13年頃(1727~28)勝本の土肥甚右衛門、郷ノ浦の許斐小左衛門、瀬戸の布屋九郎左衛門、芦辺の篠崎與右衛門が共同経営の組を興した記述がある。

「御意済帳」元文元年(1736)3月28日条によると、土肥甚右衛門(武左衛門の弟)は先祖が松浦鎮信(法印)の落胤という理由で馬廻役に召し上げられており(『近世日本の対外関係と地域意識』)、土肥家がそのような由緒を持つ事で、鯨組の経営にあたる壱岐在地者達の中で指導的な役割を得る事となり、元文年間には壱岐在地者の共同組の形から、土肥家を組主とする土肥組に移行した事が考えられる。

一方、井元組・小田組と在地共同組が壱岐で操業を続けていた享保年間には、その後の平戸藩の捕鯨業をリードしていく鯨組・益冨組が生月島で産声を上げている。益冨家は元々畳屋という屋号を名乗っていたが、甲斐武田氏の家臣・山縣三郎兵衛の子孫が平戸に土着して家を興したという由緒がある。享保7年(1722)頃には田中長大夫家とともに平戸の山口屋他が経営する鮪漁業の惣仲間へ加入し、享保9年(1724)には生月島中部の松本鮪網代を経営しており、また突組創業直後の享保12年(1727)に島北部の本(元)浦の鮪網代を発見し、請浦の許可を願い出ている事から、突組の創業に先行、並行して準備や運営に多額の費用を要する鮪大敷網の経営に当たっていた事が分かる。また益冨家文書「先祖山縣氏系譜」にも突組創業以前に鰤網を行って利益を上げ、鮑の取引を渡世にしていたとあり、他に長崎商人・春善次郎と鮑や鯣などの取引があった事も確認されており、畳屋家の多角的な水産業経営の先に鯨組の創業があった事が伺える。

 益冨家文書「益冨鯨組初扣」によると享保10年(1725)畳屋又左衛門は田中長大夫とともに突組の経営に乗り出し、舘浦姫宮の脇に納屋を設け(現在も「納屋ん下」の地名が残る)12艘の鯨船によって突取法の操業を行ったが、捕獲頭数3本という厳しい結果に終わっている。そのため田中長太夫は見切りをつけて経営を退き、畳屋家は単独で経営に当たる(畳屋組)事になる。益冨家が用いる牛角の紋の由来に、経営不振のため飛降自殺を考えた初代が牛に邪魔されて思いとどまり、蜘蛛の巣を見て網掛のアイデアを思いついたというものがある。後半の網掛発明譚はさておき、前半部は創業時の苦境を下敷きにしたものと思われる。しかし享保14年(1729)に根拠地を島の北部の御崎浦に移した事で、その年の冬から翌春にかけて22本の鯨を捕獲する好成績をあげるに至る。 

享保17/18年漁期(1732~33)には、畳屋組は網掛突取法を行い得る網組の編成(三結組編成と思われる)に移行するが、漁獲は16本に留まっている。これについては漁場の潮行きや操業場所を読みきっていない事が原因と考えられている。同じ享保17年に畳屋組は壱岐勝本の組の1/4の共同経営を平戸藩から認められているが、その後、網掛突取法に慣れた壱岐の組のハザシ頭と御崎組のハザシ頭を交替させる処置を取った所、御崎組の操業がうまく行くようになり、享保20/元文元年漁期(1735~36)には37本を捕獲する好成績をあげている。なお「元禄十三辰年ヨリ御書出控 御意済控」(松浦史料博物館所蔵)によると享保18年には、漁場が接する的山大島の鯨組との猟境も決められているが、その後畳屋組側が越境して魚見(山見)を出した事で処分される事態も起きている。

 一方で益冨組は壱岐への進出を積極的に行っている。前述したように享保17年には益冨組は壱岐勝本の組の1/4の共同経営に参加しているが、壱岐湯本の観世音寺にある石造の香台には、享保19年(1734)に奉納した寄進者の名前に「江戸住 小喜多亦右衛門、勝本住 土肥甚右衛門、湯本住 長谷川三右衛門、生月住 畳屋又左衛門」の4人の名前が刻まれていて、この時期、勝本浦の鯨組の経営にあたった者達である可能性がある。なお『壱岐郷土史』にも享保16年(1731)に篠崎、土肥、布屋、畳屋又左衛門と江戸の油屋又右衛門の5名が共同の組を出したとある。

『政庁要録』によると、元文3年(1738)に壱岐以外の漁場で和泉屋(土肥甚右衛門)と畳屋(又左衛門)が漁場の境界を巡る出入を起こし、土肥側が勝ち、畳屋側が背美鯨二頭分の過料を申し渡されており、漁場を巡る畳屋組と土肥組の争いが激化している事が窺える。そして元文4年(1739)には、壱岐の主要漁場で、おのおの標準規模の網組である三結組の2倍規模の六結組(大組)の操業が可能な大漁場だった島北部の田ノ浦(勝本浦)と東部の瀬戸(前目、恵比須)浦について、両浦を畳屋組と土肥組が隔年交替で使用するように平戸藩の仲介で取り決められている。これによって益冨組は、三結組編成の網組で御崎浦の1組と壱岐の2組(瀬戸か勝本のいずれかで大組の形で操業)の三組体制を取る事となる。なお初代又左衛門正真は寛保2年(1742)捕鯨業振興の功により、平戸藩主より益冨の姓を与えられている(以下、畳屋から益冨に返記)。

 18世紀後半に入ると、益冨組は三組体制を基本としながら、他の漁場への出漁も行うようになる。例えば宝暦12年(1762)から向こう三年間、呼子・小川島に出漁したとされるが、松下志朗氏が調べた益冨組の出漁状況によると、明和元/2年~安永2/3年漁期(1764~74)には基本の三組体制からなり、安永3/4年~5/6年漁期(1774~77)には、加えて的山大島(冬浦)-平戸津吉浦(春浦)漁場に一組を出漁させている。なお大島-津吉漁場の鯨組はそれ以前に中尾組の支配人・藤松氏が経営しており、益冨組は新たに組を編成したというより、中尾組に代わって同地で操業する鯨組の経営を行う形だったと推測される。その後は再び三組体制に戻るが、天明5/6年漁期~寛政4/5年漁期(1785~93)には、的山大島で冬春共操業する一組を加えた四組体制となっている。なお『寛政弐戊四月 酉冬戌春 勝本組鯨御運上油銀書出帳 並御用油鯨仕出書出 益冨勝本組』によると、寛政元/2年漁期(1789~90)に益冨・勝本組は背美鯨48頭(冬41、春7)、座頭鯨6頭(冬2、春4)の計54頭を捕獲している。

なお「免用其外覚書」(福岡県立図書館所蔵)によると、天明6年(1786)には福岡藩が蝗害用鯨油の必要量を初めて見積もり、それに対応した備蓄用鯨油の注文が益冨家に対して出されており、18世紀初頭に発見された鯨油除蝗法の普及と共に鯨油の需要が上昇し、捕鯨業の振興に有利に働いたと思われる。

益冨組の本拠地である生月島では、寛政5年(1793)に益冨家が所在する壱部浦の氏神である白山神社に、第四代当主・益冨又左衛門正真が瀬戸内海産花崗岩製の鳥居を奉献しており、寛政9年(1797)にも島内の住吉神社に益冨忠左衛門正昭(隠居した三代目)が同様の花崗岩製の鳥居を奉献しているが、当時の活発な捕鯨活動を背景にした動きと捉えられる。また天明8年(1788)末から翌寛政元年(1789)1月にかけて、画家・司馬江漢が生月に滞在して捕鯨や鮪漁を見物し、後に『西遊旅譚』『西遊日記』などを刊行しているが、この事から当時、生月島が捕鯨漁場として知られていた事が分かる。

土肥組の壱岐の操業については『前目勝元 鯨組永続鑑』に明和7/8年より安永4/5年までの6漁期の成果が記されている。これによると明和7/8年(1770~71)には勝本浦で背美鯨40頭(冬35、春5)、座頭鯨3頭(冬1、春2)の計43頭を捕獲している。明和8/9年漁期(1771~72)には前目浦で背美鯨44頭(冬41、春3)、座頭鯨12頭(冬4、春5)の計56頭を捕獲している。安永元/2年漁期(1772~73)には勝本浦で背美鯨37頭(冬33、春4)、座頭鯨1頭(冬1)、克鯨9頭(冬2、春7)の計47頭を捕獲している。安永2/3年漁期(1773~74)には前目浦で背美鯨37頭(冬34、春3)、座頭鯨8頭(冬6、春2)の計45頭を捕獲している。安永3/4年漁期(1774~75)には勝本浦で背美鯨31頭(冬31)、座頭鯨1頭(春1)、克鯨8頭(春8)の計40頭を捕獲している。安永4/5年漁期(1775~76)には前目浦で背美鯨29頭(冬26、春3)、座頭鯨7頭(冬5、春1)の計36頭を捕獲している(※子持は2頭で換算)。土肥組は冬浦には2組合同の大組で操業し、春浦には1組を他の漁場に派遣したと考えられるが、それにしても春浦の捕獲頭数の少なさは目立ち、壱岐漁場が基本的には冬浦漁場である事が分かる。また背美鯨の割合は全体の8割に達し、壱岐漁場が鯨油生産を主体とした西海漁場の古式捕鯨業で第一の漁場に位置づけられた理由が分かる。他方、捕獲頭数が明和8/9年漁期をピークに減少している点は気になる。

寛政11年(1799)に作成された「九州鯨組左之次第」には寛政10/11年漁期(1798~99)の西海漁場(長州を除く)の網組の操業状況が紹介されているが、当時この海域には三結組単位で14組程度が操業しており、そのうち益冨組と土肥組が各々4組を支配していた。益冨組は冬浦に壱岐前目2組、生月島と的山大島各1組が操業し、春浦には前目、生月、壱岐印通寺、五島灘平島に各1組が操業している。一方、土肥組は冬浦には壱岐勝本に2組、対馬廻浦と五島小値賀島に各1組が操業し、春浦には勝本、廻浦、対馬伊奈浦、平戸津吉に各1組を操業している。こうした益冨、土肥両組の鼎立状態を表すかのように壱岐の本村八幡宮の本殿裏に祀られた一対の矢大臣の石像の台座には、寛政10年(1798)の年号と共に、益冨又左衛門と土肥市兵衛の名前が並んで刻まれている。なお「九州鯨組左之次第」には「去今年ハ至て不漁壱岐而巳ニあらす、九州一流之不漁ニて候」とあり、この時期、西海漁場が不漁に見舞われていた事が分かる。

 19世紀に入ると、壱岐の前目・勝本二大漁場の二組独占を基礎に置いた益冨組・土肥組の鼎立状態に変化が現れる。まず文化3/4年漁期(1806~07)に前目・勝本の両漁場を土肥組が請浦している。これによって益冨組は壱岐漁場から撤退する事となるが、同漁期に益冨組1組が長州通浦に入漁しているのは(「文化期、通・瀬戸崎両浦への九州鯨組の入漁事情」)壱岐を撤退した組の半分が出漁したものと思われる。しかし土肥組の両浦占有は不漁によって藩への運上が滞る事態となり文化7/8年漁期(1710~11)を最後に終了し、翌文化8/9年漁期(1711~12)から土肥善次郎、文化12/13年漁期(1715~16)の下関・辰巳屋(浦賀)栄次郎などを経て、文政2/3年漁期(1819~20)から文政11/12年漁期(1820~29)にかけては益冨組の出漁をみる(「西海捕鯨業における巨大鯨組の経営と組織」)。これによって益冨組は両浦を請浦した上に生月島で操業する一組を加えた五組体制を確立するが、この規模は古式捕鯨業時代の西海漁場しいては日本国内において最大の捕鯨組織である。捕鯨図説『勇魚取絵詞』には当時の益冨御崎組の操業内容が詳細に報告されているが、それによると生月島のみならず的山大島、度島、平戸島北部にわたって山見による監視網を作っており、網代は生月島北端東側の鞍馬沖、鯨島沖にあったが、沖場編成を見る限り、勢子船20艘、持双船4艘、双海船6艘、双海付船6艘、納屋船2艘その他で構成されたオーソドックスな三結組の編成である。また一組の人数は御崎浦にある納屋場(付、前作事場)も含めて587人を要したが、加工の臨時雇い等を加えるともっと多かったのではないかと思われる。さらに壱岐の両漁場に展開した二つの大組(六結組)は、編成や人員において各々が御崎組の約二倍の規模を有しており、それらを併せた五組の総人数は常雇いだけで三千人前後に達したと推測される。

 こうした益冨組の繁栄については、藤本隆士氏が指摘するように、大本家(益冨家)を頂点に畳屋姓などを持つ多くの分家の人材を鯨組関係の要職に配置し、また益冨家当主が分家して仕官した山縣家は平戸藩とのパイプ役を果たしていたと思われるように、本分家関係を基礎とした強固な組織が繁栄の一要因であったと推測される。また益冨組では、当時の解体場においては普通に行われなかば容認されていたカンダラと呼ばれる地元民による鯨肉盗の行為をかなり厳しく取り締まっていたようで、「鯨組方一件」(佐賀県立博物館所蔵)には出漁先の浦人から「がんどう組(強盗組)」と呼ばれ憎まれていたという記述があるが、こうした厳格な経営姿勢も企業としての益冨組の繁栄に繋がったと思われる。流通面では、益冨組の鯨油は福岡、肥後両藩に多く販売されているが、「永代家事記」には、福岡藩では文政3年(1820)より郡単位で除蝗用鯨油の備油がされるようになった記述があり、益冨組の規模拡大に関連する動きとして注目される。なお鯨油以外の鯨商品(煎粕、髭、筋その他)は所有船に搭載されて瀬戸内海経由で大坂方面まで運ばれ、各地の問屋に卸され販売されているが、同時にそれらの問屋から捕鯨用資材を購入しており、手形などを用いて実際の金が動かない形で決済が行われている。また鯨肉も船で北部九州沿岸に運ばれている。益冨組や土肥組の加工の一翼を担った辻川小納屋に関する史料によると、安政2/3年~3/4年漁期(1855~57)に壱岐漁場で生産された黒皮・赤身・觜棚などは船で下関(下関市)、博多(福岡市)、芦屋(芦屋町)、彼杵(東彼杵町)、時津(時津町)などに運ばれている(「西海捕鯨業における鯨肉流通」)。そのうち彼杵は現在も鯨肉の流通拠点になっているが、江戸時代には大村湾から船を引き込む港湾設備が整備され、鯨肉もそこから陸揚げされていた。彼杵では鯨肉の輸送が鉄道に代わった明治末期以降も、鯨商人達は鯨肉を天秤棒で担って峠を越え佐賀県南部に販売して回っており、こうした流通は江戸時代から続いてきたものと思われる。

文化面においても益冨家は、捕鯨図説の最高傑作と称される捕鯨図説『勇魚取絵詞』を天保2~3年(1831~32)に印刷刊行しているが、同図説の跋文は文政12年(1829)に記されており、五組体制の時期と重なるように制作が進行した事が推察される。また同図説と同時に刊行された『鯨肉調味方』は、鯨料理を集成した珍しい料理書だが、鯨食需要の拡大を企図して刊行された可能性がある。また生月島舘浦出身で巨体(身長7尺5寸)を平戸藩主に見込まれて天保15年(1844)に江戸相撲でデビューした生月鯨太左衛門も、益冨家が関係していたと伝わるが、鯨の島・生月をアピールする「歩く広告塔」だと言える。壱部浦にある益冨家の敷地内には文政8年(1825)に建立された恵比須神社社殿(長崎県有形文化財)が残るが、嘉永5年(1852)には覆屋が作られているため風化を免れており、創建当時の壮麗な彫刻がよく残っている。

  ただ巨大化した鯨組の維持にはそれ相応の支出も要したため、文政12年(1829)5月には益冨組は不漁を理由に文政13/14年漁期から壱岐の片組(六結組)の返上を願い出ている。しかし天保6/7年~天保9/10年漁期(1835~39)にかけては再び五組体制に復している。

 弘化年間(1844~47)を迎える頃、益冨組は生月島と壱岐の漁場で三組体制を取り、弘化2/3年漁期(1845~46)には133本(1組平均44本)を捕獲するまずまずの成績を上げている。しかし翌弘化3/4年漁期(1846~47)には69本に落ち込み、さらに嘉永2/3年漁期(1849~50)には44本、嘉永5/6年漁期(1852~53)には一時的に26本にまで落ち込んでいる。さらに安政年間(1854~60)に入ると30本台以下が恒常化する深刻な不漁を被っている。

 これに対して益冨組は、この時期あまり利用されなくなっていた五島方面での春浦出漁を行う一方、嘉永4年(1851)には組内の改革を試み、嘉永5年(1852)には税の減免措置を平戸藩に願い出ている。しかしながら不漁に抗する事は出来ず、万延元年(1860)には不漁のため一時休業せざるを得なくなる。明治2年(1869)には一旦再興されるが、明治7年(1874)ついに益冨組は廃業の止むなきに至る。これについては廃藩置県によって、大口の鯨油納入先であり同時に鯨組の事業資金の貸主であった黒田藩や細川藩などが消滅した事も影響したのではないかと推測される。

  益冨組の解散後も、御崎浦を拠点にした網組の操業は継続しているが、捕獲頭数は少なく、赤字を出したため経営者は次々と代わっている。明治12年(1879)には平戸の小関亨と牟田部佃が平戸捕鯨社を興して操業し、明治20年(1887)には平戸の蒲生林作他3名が権利を獲得している。明治22年(1889)には中央資本の大日本帝国水産会社に経営が移り、同社は敷地施設や機材を持つ蒲生達と共同経営の形で操業を行い、明治26年(1893)には五島捕鯨株式会社の川原又蔵が経営に加わっている。しかし例えば明治25/26~30/31年漁期(1892~98)の生月漁場の捕獲頭数は最高でも13頭、最低8頭に過ぎず、加えて明治20年代末には朝鮮半島沿岸で操業するロシアのノルウェー式砲殺捕鯨船が捕獲した鯨肉が輸入された結果鯨肉の価格が暴落し、国内捕鯨業の経営を圧迫しており、鯨組の経営は容易ではなかった。明治37年(1904)12月付けで生月捕鯨組関係者の森新七が、双海船の売却を田島の人に依頼した手紙がある事から、生月島の網組もこの少し前の時期に解散したと思われる。

2021/07/28




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