長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

キリシタン時代の信仰内容

 宣教師の報告から、16世紀後半ごろの生月島のキリシタン信仰を概観してみよう。
 従来の神仏は偶像であったため、ヴィレラ神父のように、これを集めて焼くという過激な行動を取った場合もあったが、一方で寺院や堂は、仏像を取り出した後カトリックの教会や御堂に転用された。生月島内で最大の山田の教会は600人が収容可能だったが、婦人だけで一杯になり、男は庭に筵を敷いて説教を聞いたという。一部の教会は寺を転用したもので、最も清浄な場所に建てられていた。また教会の管理は、以前僧侶だった改宗者に委ねられた。教会とともに重要なのが十字架で、見晴らしのきく丘の上に建てられ、周囲には信徒の墓地が設けられた。山田では、殉教地ガスパル様がある黒瀬の辻がその場所だと考えられる。
 教会や有力信徒の祭壇には聖像が祀られた。また祭礼の行列には聖母マリアの画像が掲げられた。個人の信徒の中には、出産に際して男児の出産を祈願するために、十字を描いた紙を壁に貼って拝む者もあった。武士の信徒はロザリオ(数珠)や聖遺物を首に掛けた。
 またロザリオは教会を預かる元僧侶や一般信徒にも渡された。西玄可は多くの霊的書物や信心書を持ち、頻繁に読んでいたという。
 年間のうち祭日や断食の日が決まっており、祭日には教会で行事が行われた。神父や修道士が来島すると教義を聴くため、多くの人が集まった。到着した宣教師は、まず最初に十字架に詣でてから、教会に向かった。教会ではミサが執り行われ、聖歌が歌われた。また神父から懺悔を受けた。イエスの祭日及び王の祭日、降誕祭などが年間の大きな行事だが、特に春の復活祭に至る四旬節の行事は盛大で、毎金曜日に受難の説教を行い、ヂシピリナと呼ばれる鞭打ちの苦行も行われた。暗黒の日が終わった後の木曜日には、大勢が黒衣を着て、頭には荊の冠を付けて教会を出、夜に至るまで鞭打ち苦行を行った。復活祭には、教会の内外を木と花で飾り立てた。11月の死者の為のミサも熱心に行われた。
 洗礼は神父が行うが、信徒で教義に通じた者が行う場合もあった。結婚に際しても教会で秘蹟を受けた。死に先立ち臨終の秘蹟を受け、死後は十字架の周囲に設けた墓地に埋葬された。
 また集落毎に慈悲組が置かれ、代表である組頭は教会の世話や一般信徒の世話をした。
 また聖母の信心会も作られた。もと寺院にいた僧侶が転宗し、財務も含めた教会の管理に当たる例もあった。管理する金は、貧民救済や宣教師・参拝者らの世話に使われた。
  当時のキリシタン信仰は、中世ヨーロッパのカトリック信仰を中世の日本人が受容して成立したものであり、宣教師や修道師も常駐していた訳ではないので、多くの信徒に聖書の教義があまねく行きわたっていたとは考えにくい
 今日のカトリックと比べても大きく様相が異なっていたと思われる。

2019/12/17




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