長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

籠手田・一部氏の脱出と西玄可の殉教

20191217161313.jpg

 布教には積極的でなかったが、南蛮貿易の利もあって積極的な弾圧を行わなかった松浦隆信は慶長4年(1599)に没する。その子鎮信は、父親の在命中からキリシタンを弾圧する姿勢を取っていたが、滞在中の京都から、父親の仏式の葬儀に籠手田安一や一部正治も出席する事を求めた。これは事実上の棄教の要求だったが、両者は悩んだあげく、キリシタンの領民達を率いて退去することを決心した。
 慶長4年(1599)のある夜、両者は600人もの信徒とともに島を脱出し、途中妨害にも会わずに長崎にたどり着いた。
 信徒が逃れた当時の長崎は、既に教会領ではなく、豊臣家の公領として代官寺澤広高が治めていたが、貿易に関係してイエズス会は隠然とした力を持っていた。帰国後に事件を知らされ鎮信は激怒するが、その後も後を追うように200人もの信徒が長崎に逃れたため、さすがの鎮信も信徒に対する攻撃を弱めざるを得なかった。脱出信徒は当時の教会や信徒達、大村氏の援助を受け、長崎に隣接した大村領に収容され、数ヶ月間生活する。一行はその後、細川忠興から招かれ筑前国に向かったという。

 領主が居なくなった生月島は松浦氏の直轄領となり、松浦鎮信は禁教政策を推し進める ために教会や十字架を破却して、寺社を再興する。
 慶長14年(1609)11月14日には籠手田・一部両氏の脱出後、信仰を指導していた元籠手田氏の代官・西玄可(洗礼名ガスパル)も捕らえられ、かつて十字架が立っていた黒瀬の辻で処刑、埋葬された。
 また妻のウルスラや息子ジョアンも、連行される途中で斬り殺された。黒瀬の辻には、かつてガスパル様の松と呼ばれる大松があり、根元の崩れた積石墓がガスパル様の墓と言われていた。
 平成3年(1991)にはカトリック信徒によって十字架型の「黒瀬の辻殉教碑」が建てられ、毎年11月14日前後にミサが執り行われている。

 

2019/12/17




長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

〒859-5706 長崎県平戸市生月町南免4289番地1
TEL:0950-53-3000 FAX:0950-53-3032