長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:囲郭型城郭再考

生月学講座:囲郭型城郭再考

 前回は先端郭型城郭を取り上げ、その特徴を①堀切と縦堀による尾根線の遮断、②円・楕円を指向しない自然地形のままの曲輪、③周囲の斜面の遮断が不完全である事(全周遮断の不完全)としました。2023年の『島の館だより』に掲載した拙稿「北松城郭考」では、北松地方の小規模城郭の三類型である〔先端郭型城郭〕〔松浦式囲郭型城郭〕〔縁辺郭型城郭〕の差は立地地形の違いにあるとしていましたが、先端郭型城郭の再考を行う中で、先端郭型城郭と後の二類型の間には重要な違いがある事に気付きました。それは城域線の全周遮断を指向する「思想」の有無です。
 松浦式囲郭型城郭は、「北松城郭考」でも示したように、緩斜面の丘陵の上に城を設ける際に用いられる築城形態で、丘陵上に円・楕円に全周する〔外側〕横堀と〔内側〕土塁を設けて、内側の単郭の(円・楕円形の)曲輪を城内空間としています。中規模な城では、城外と城内を繋ぐため土塁に切れ目(門)、堀に土橋を設けて出入口としますが、小規模な城には門や土橋は無く、堀や土塁を乗り越えて出入りしたようです。本形式では〔内〕土塁頂と〔外〕堀底間で遮断に有効な高さと斜度を持つ段差を実現し、それによる城域線全周の遮断を指向しています。本形式の代表的な城郭の一つが平戸市田平町の籠手田城です。同城の円形曲輪の直径は20㍍程しかなく、家屋を建てるだけの城内空間が無い小規模城郭ですが、周囲は二重の〔外〕横堀・堀切と〔内〕土塁(二重段差)で構成され、強力な全周遮断を実現しています。同城が所在する田平地方の戦乱として記録にあるのは、文明18年(1486)頃に起きた松浦弘定と峯昌の間の峯氏の家督を巡る争いですが、かりにこの時期に籠手田城が松浦側か峯側によって作られたとすると、籠手田城は松浦式囲郭型城郭の始期にあたる事例の可能性があります。本形式を大型化し、内部に家が建てられる広さの曲輪を設け、城外と城内を繋ぐために土塁に切れ目(門)、堀に土橋を設けたのが壱岐の生池城です。壱岐の中央部にある同城は元亀2年(1571)の平戸松浦氏の壱岐領有に伴い、屋敷を有する拠点とするために設けた可能性があります。
 縁辺郭型城郭は、線上に伸びる急斜面を持つ丘陵末端部を利用して設けられた城で、丘陵上面には半円形に〔外〕横堀と〔内〕土塁を巡らして防御段差を実現し、斜面側にも必要に応じて切岸を造成し、内側を(半)円・楕円形の曲輪にしており、囲郭型の構造を部分的に取り入れながら城域線全周の遮断を指向しています。佐々町の野寄城は丘陵上面側に半円形に〔外〕横堀〔内〕土塁を設け、斜面側にも切岸を半円形に回す事で、全周遮断を達成していますが、曲輪は家を建てられる広さではありません。一方、松浦市鷹島の医王城や佐世保市針尾島の針尾城は家を建てられる広さの曲輪を有しており、先の生向城同様、曲輪内の屋敷を守るために全周遮断を指向した城だと言えます。
 面白いのが佐世保市針尾島にある大刀洗城で、屋形が存在した谷地の横の舌状丘陵先端に小規模な城郭を設けているので、襲撃時の逃げ城(殿山)であった事は明らかです。このような地形を利用する場合、古くは堀切・縦堀を設ける先端郭型を採用しましたが、大刀洗城では、湾曲する横堀で背後の尾根からの連絡を遮断し、側面と丘陵先端の斜面には半円形に切岸を巡らして全周遮断を実現する、縁辺郭型城郭を採用しています。
 全周遮断指向は、16世紀末の織豊系城郭技術の導入後には、勝本城、梶谷城、平戸城本丸などで石垣で囲まれた曲輪の形で継承されます。
(2025年6月 中園成生)

2025/01/05




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