長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:須古踊の唄

生月学講座:須古踊の唄

 8月のお盆の時期には平戸市内各地で民俗芸能の行事がおこなわれます。そのなかで有名なのは平戸島と的山大島の大根坂に継承されているジャンガラ(国無形民俗文化財、世界無形文化遺産)ですが、的山大島、度島(現在休止)、生月島、平戸島中部西岸の獅子などでは、「須古踊」という、笠に着物姿の男性が円形に並び、唄に合わせて舞のようにゆっくりと踊る風流踊系統の芸能が継承されてきました。須古踊は市内田平町の下亀や以善でもかつては雨乞の行事としておこなわれ、平戸島南部の大志々伎でもジャンガラの踊子によって「すこ踊」がおこなわれていた事が最近確認されています(現在休止)。昨年(令和7年・2025)11月には生月島舘浦の須古踊が長崎県無形民俗文化財に指定されたため、島の館では今夏季の企画展として「平戸市域の須古踊」を開催しています。
 須古踊はもともと戦国後期~江戸時代初期に佐賀平野を中心とした北西九州で流行した芸能で、その名称は佐賀平野西部の白石平野にあった須古城に由来します。在地領主・平井氏が城主だった須古城は天正8年(1574)龍造寺隆信に攻められて落城し、龍造寺氏の西肥前平定の拠点となりますが、須古踊は隆信や隆信敗死後に実権を掌握した鍋島氏の治世でも盛んにおこなわれ、寛永14年(1637)9月には鍋島氏によって江戸城の徳川家光の御前で披露される程でした。しかしその後、佐賀平野では須古踊は廃れ、浮立という別の芸能形態が盛んになります。荒谷義樹氏は須古踊衰退の原因について、将軍披露直後の寛永14年10月に勃発した島原・天草一揆に関連付けられた事で須古踊は鍋島氏によって忌避されるようになったと推測していますが、結果的に須古踊は佐賀平野の周辺部にあたる北松地域や大村などに残る事となりました。
 各地の須古踊では踊る際に様々な唄が歌われますが、なかには共通する歌詞を持つ唄もあり、例えば舘浦須古踊には次のような歌詞の唄が継承されています。
「目出たき御代の初めかな 千代に八千代まで 穂に重なりて でいええいえ 御代へ栄あれ 幸あれ」※筆者が転訛を修正
 荒谷氏の調査によると、この唄と近い歌詞を持つ唄は平戸市内では舘浦の他に度島三免・中部、平戸島獅子、同大志々伎などに残る他、市外でも松浦市鷹島中通、同市今福町江迎、佐世保市世知原町北川内、同市皆瀬町十文野、同市柚木町、大村市寿古、諫早市小長井町遠竹、同市飯盛町古賀、長崎市野母町野母崎などの須古踊に伝承されていました。この唄の「目出たき御代」という文句は荒谷氏の研究によると、17世紀初めに山口県岩国市域で成立していた事が史料から窺える風流系芸能・南条踊の歌詞に「目出たき御代」の文句が確認できる事から、同じ文句を持つ須古踊の唄もこの時期に成立した可能性があると考えられています。また三浦浄心が寛永年間後期に制作したと考えられる『見聞集』にも「天下治り目出度御世」という表現が登場しますが、長い戦乱の時代に終止符を打ち天下に平和をもたらした徳川の治世が始まったことを寿ぐ文句である事が分かります。
 「目出たき御代」の文句を持つ唄はもともと、鍋島氏が天下普請の場や将軍上覧などで須古踊を披露する際に、徳川家が統治する時代が長く続く事を祈念して作られた唄である可能性があると思われます。
(2026年8月 中園成生)

2026/08/03




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