長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:司馬江漢の生月遊学

生月学講座:司馬江漢の生月遊学

  令和6年2月17日、福岡市で福岡ユネスコ協会主催の「江戸時代における長崎への画家遊学」という講演会があったので拝聴しました。講演では国際日本文化センターのタイモン・スクリーチ教授が司馬江漢の長崎遊学について紹介されました。江漢は天明8年(1788)から翌寛政元年(1789)にかけて、江戸から長崎に向かう旅行を行っていますが、長崎からの帰路、平戸を経て天明8年の12月4日に生月島に渡り、翌正月4日まで島に滞在して捕鯨や鮪漁などを見物しています。そしてその時の見聞の内容を寛政6年(1794)に刊行された『西遊旅譚』で紹介しています。この冊子は13年後に『画図西遊譚』というタイトルで再刊されましたが、その時には幕府に配慮して神君家康を祀る久能山東照宮の図を削除したそうです。またこの旅の様子は文化12年(1815)に制作した『西遊日記』にも紹介されています。
 江漢は西洋画家として知られていますが、以前には鈴木春信の工房に入って浮世絵を学んだり、狩野派で学んだりして絵画の技術を学んでいたそうです。江漢の長崎旅行の目的について私は漠然と、海外文化の香りを摂取するためだと考えていたのですが、スクリーチ先生によると、江漢は天明8年2月から3月にかけて江戸の将軍に挨拶に訪れた長崎オランダ商館長一行に面会し、特に医師のズツ(ストッツル)と意気投合して長崎訪問を約し、その勢いで一ヶ月後に長崎に向けて出立したという事のようです。江漢は道ずがら、彩色銅版の風景画を立体的に見せる「覗き眼鏡」を有料で見せたり、描いた絵画を売ったりして路銀を稼ぎながら長崎に到り、通事(通訳)の吉雄耕作の手引きで医師という事で出島に入り、ズツと再会しています。
 江漢は長崎から帰る途で平戸・生月島に立ち寄り、捕鯨を見物しています。江漢が生月島を訪ねた理由についてですが、江漢が記した『西遊日記』には、平戸到着後2日目の天明8年12月18日に平戸松浦侯(松浦清=静山)に到着を報せており、21日に城下の客家(御客屋)で松浦侯に謁見している事から、江漢の平戸来訪を平戸藩主は前以て知っていたと思われます。そして『西遊旅譚』に「余嘗平戸島に渡り松浦侯の命によりて生月島益富又左衛門か宅にとゝまる事三十日」とある事から、その時松浦清から生月島で捕鯨を見る事を正式に依頼されたと思われます。26日には山形六郎(二代目山縣六郎兵衛)の家を訪ねていますが、同家の初代はもと益冨又左衛門(二代目当主)正康で、平戸藩に2万両の献金をした功で馬廻に取り立てられており、益冨家と繋がりがある事から、彼の手筈で生月島に渡り、益冨家の応接を受けた事が考えられます。また生月島から平戸に帰った後の天明9年1月6日には大蔵という神主を介して松浦侯から銀千疋の目録が渡され、7日には神社で参拝する松浦侯に会い、おそらくは目録の御礼を申し上げたと思われます。なお5日にも益冨家関係者の山縣又之助から銀千五百疋と画帖料千疋を受け取っている事から、藩主の企てに益冨家も関わっていた事が窺われます。
 唐津藩領の呼子漁場では安永2年(1773)に唐津藩士・木崎盛標によって捕鯨図説『小児の弄鯨一件の巻』が制作されていますが、松浦清と益冨家も平戸藩内の捕鯨を知らしめるため、現在のインフルエンサーのような役割を期待して、司馬江漢を招聘した事が考えられます。
(2026年2月 中園成生)

2026/01/29




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